2009年11月01日

【11月号】 東京にも海抜2000メートル級の山があるなんて知ってました!


江戸東京の食材を求めて奥多摩へ出掛けてみた。雲取山(2016b)の山ふところ深くの沢にはワサビ田が造られているが、今回は日原谷に向かう。川苔山(1,340b)の林道を落石に注意しながら途中まで車で行き、そこからは、農産物運搬用のモノレールで標高1.100bの、千島山葵園のワサビ田で収穫作業に立ち会った。



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奥多摩ワサビ栽培の歴史は古く、江戸時代にさかのぼる。初めは野生の苗を採取して栽培されて、筏によって神田市場に運ばれていた。武蔵名勝図会(文政六年)によると海沢(うなざわ)村の産物として山葵(ワサビ)が紹介されているが、「山葵 この地の名産なり、多く作りて江戸神田へ出す。」としたうえで、栽培についても「村内に澗水の流れ多く、

また柿平川という谷川もあれば、清水の流れは常に絶えず、士気少しもなきように、小砂利の間に挿み置きて、上の方より清水を不断に流して、又、多からず少なからぬように灌ぎぬれば、分根して、その葉は少く、その味はいと辛し。」と詳細に記され、「当村は山葵を作り出して、値百金余に至れる由。」と数少ない換金作物であったことがうかがわれる。

また、「これより西に至る村々にても作れども、この地は殊に多し。」と奥多摩の各地で栽培されていたことがわかる。明治28年頃より地元の仲買人が神田に常時出荷するようになると、産地奥多摩の名は定着していく。明治43年8月に相次ぐ台風に伴う洪水で、山懐のワサビ田は崩壊、流失する壊滅的な打撃を受け、廃業する者も相次いだが、全国的な被害で価格が高騰したことから、再び生産しようと云う意欲が生産者の間に湧きおこり栽培面積は10.5fまで回復した。

その後、昭和46年に20fにまで広がったが、外国産の安いワサビが輸入されるようになったことで、品質の良い奥多摩ワサビは苦戦を強いられている。