2014年07月19日

青梅市の新町御嶽神社境内に建立されていた「雹害紀念塔」


6月24日に、三鷹・調布という限られた地域で、集中的な降雹があり、農産物に大きな被害があったことは、当ブログで紹介した。

降雹の被害は、江戸の昔から多摩地区では何度も発生していて、青梅市には「雹害紀念塔」が建立されている。

降雹は、日野から国立・府中の道筋と、青梅から瑞穂、武蔵村山、東大和、小平の道筋など、昔から降雹のコースがあったが、最近は、多摩地域の山林開発や、地球の温暖化などで、発生する季節や、降雹の道筋が変わってきている。

かつての降雹の記録を調べていたら、「江戸東京ゆかりの野菜と花」の共著者のひとり、植松文雅先生が、平成元年に東京農業物語として「農業災害(雹害)」について書かれていた。

植松先生によると、古くは、江戸後期の天保の時代の東大和市の記録『指田日記』や、明治の記録としては『相沢日記』などが記されているが、特に、昭和になってからは青梅の霞村・新町に、記録が残っていた。


 
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「雹害紀念塔」
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昭和2年5月15日の降雹の道筋は、青梅から瑞穂、武蔵村山、東大和、小平にかけての地域で被害は発生していて、青梅の霞村・新町では、開村300年にしての大被害だったとして、永遠に記念しようと、「雹害紀念塔」建設の話が持ちあがったと云う。
 
紀念塔に、碑文はないが、その概要は青梅市の吉野廣助氏が綴った『新町雹害紀念誌』に記されていて、植松先生が書き写されていた。

 午前11時20分頃、西北ニ黒雲現レ天鳴動、直二大雷雨卜化シ、径5、6分位ノ降雹トナリ、少時モ間断ナク続テ正午12時二至りテ漸ク止ム。
此間殆ンド30分間ノ長キニ亘リ実二驚キ茫然トシテ倶二顔色ナシ。
 外ヲ眺ムレバ松柏ノ類ヲ除ク青葉ハ皆落チ柿梅杏ノ如キ果実ハ為メニ全部落下セリ。
表通り南北二条ノ堀ニアフレ・・・(省略)。

 其他草葺屋根ノ軒下ハ羽子落チシ降雹被害1尺5寸乃至2尺位積レリ、又畑ノ畦二流レ込ミシ処モ同断ナリ。
(省略)・・・今回の降雹被害ノ甚大ナル事我新町開村300年来、未聞ニシテ吾人ノ倶二脳裡二忘却スル事能ハサル災害ナリ。


直径45〜60センチ大の雹が、夏野菜や果樹などを直撃、壊滅的な被害を受けたのだ。

その後、村民たちは全力で栽培復旧をされたのだろう、悪夢の降雹だったはずが「雹害紀念塔」を建てようという思いにまで克服されたようだ。

紀念塔は、降雹の中心地、蔵屋敷の辻地に翌年3月15日に除幕したようだが、新町の区画整理が行われたことで、現在は新町御嶽神社の境内に建立されている。

近年では、昭和42年夏に大きな被害が出ていると植松先生は書いているが、小平の宮寺光政さんが高校生の時で、帰宅途中に体験していた。
青梅線に乗車中、羽村、福生間で体験したが、ピンポン玉のような雹が線路を覆ったと当時の模様を語ってくれた。



posted by 大竹道茂 at 00:49| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報