8月11日に販売されたポテトサラダを食べた客から腸管出血性大腸菌O157が検出された、というニュースが全国を駆け巡った。
ポテトサラダが感染源としていたが、8月26日に調べたサンプルは、陰性と確認され、いまだに原因は究明されていない。
実は20年前にもO157事件が発生して、大きな事件となった。
あれは、大阪市堺市で発生したもので、時の厚生大臣は感染源を「カイワレ大根」とする記者会見を早々と行った。
これにより、カイワレ大根を生産する全国の生産者は大きな被害を受けたが、原因は判明しなかった。
先日、第五砂町小学校で行われた、砂村一本ネギの栽培指導で、江戸川にお住いの関口隆雄さんにお会いした。
関口さんは先代から引き継いだ「つまみ菜」栽培をしていた37歳の時、農業後継者として1974年日本農業賞東京都代表に選ばれた。
当時、畑の南側には東西線が南砂、葛西間の高架を作っていた。(写真は現在の小島町2丁目)
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そもそも「つまみ菜」は、江戸時代、深川の百姓、細川市右衛門が、蕎麦屋から何か青味がないかと頼まれた。
思いついて、油菜のタネを水に浸してから畑に厚蒔きし、葉が数枚出たところで、摘まんで収穫して持って行ったことが始まり。
その後、明治になって双葉が大きい雪白体菜が中国から入ってきた事からこれに切り替わった。
葉の形が「杓子(しゃくし)」に似ていることから「しゃくし菜」とも呼ばれている。
「つまみ菜」は、タネを蒔いて2週間、葉が2〜3枚出たところを朝採りで、片手で摘まんで専門の包丁で土がつかないように刈っていくからその名がある。
鮮度を重視するから消費地に近い深川で始まったが、都市化が進むと栽培地は東の砂村に移り、その後、関口さんのお宅が江戸川区西葛西に移転すると、お祖父さんやお父さんが栽培面積を広めていった。
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