明治後期、東京における人口の増加傾向は、飲料水の量的不足が予想され、明治44年に、明治政府は研究者の調査により、現日の出町の大久野と現東大和市の村山に貯水池を作る案が提示された。
同45年、工費が安く、工期も短いことから村山貯水池案を決定した。
その頃、多摩川では、明治44年(1911)に「9ケ村用水取水口」の樋菅が構築された。
住民の意向も聞かずに決定され、大正3年(1914)1月10日に、一方的に用地買収が始まったことから、同3年1月20日に160軒程の住民による移転反対の住民大会が行われている。
参考資料「今はむかし大和村(東大和市)」「多摩湖の歴史(東大和市)
農業は水田と畑作で、畑では陸稲、大麦、小麦、粟、大豆、小豆、甘藷、ニンジン、ゴボウ、大根、菜、白菜等を、自家用に栽培していた。
養蚕に桑、茶や炭焼きは販売もしていた。
用地買収は「裸山一反三百円(坪一円)、木のある山は反五百円、畑反五〜六百円、田反七〜八百円、宅地反七〜八百円、移転料は大小込みで、家屋坪五〜六十円だった。」価格交渉などしても、結果は東京市の言いなりで、
移転先は、主に貯水池の南側・現東大和市で、「千円で土地を買ったので、儲けどころか財産を減らした。」という。
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