暮れの21日、江戸東京野菜コンシェルジュ育成講座の講師をお願いしている阿部希望さん(国立公文書館つくば分館非常勤職員)からメールを戴いた。
何でも、研究に必要な資料を戴くために、大田区の郷土史研究家・樋口和則先生に連絡を取ったところ、
大田区馬込で代々「馬込半白節成胡瓜」の種子を採り続けてきた河原雅春氏が昨年亡くなり、引き続き採種し、保存する方がいなくて困っている。
また、「馬込大太三寸人参」の栽培農家も、高齢化の中で今後種子を受け継いでもらう方を探していて、当研究会で引き継ぐことはできないかと云うもの。
貴重な遺伝資源の伝統野菜を引き継ぐことは、簡単な事ではないが、当研究会としては、重要な仕事だけに、やらせていただくと、阿部さんに返信していた。
その後、「馬込半白節成胡瓜」の種を採取していた河原家と「馬込大太三寸人参」を継続採種していた方から、タネを託されていた樋口先生と連絡が取れ、自然石に発祥之地が刻まれた碑のある西馬込でお会いした。
馬込半白節成胡瓜 馬込大太三寸人参 発祥之地 高橋正夫書とあり
上の画像をクリツクすると裏には 「馬込半白節成胡瓜の由緒」と「馬込大太三寸人参の由緒」のパネルが貼ってある。
同石碑は、大田区の厚意により第二京浜沿いの「大田区立ライフコミュニティー西馬込」の敷地内に設置されていて、平成8年同施設で、JA東京大森(現JA東京中央)の主催で建立祝賀会が開催されたが、私も招かれ記念写真が残っていた。
写真左からJA東京大森の河原久雄参事、高橋正夫組合長、JA東京中央会梅澤幸治参与と筆者だが、皆さん鬼籍に入られた。
馬込村では、昔から大井節成が多く栽培されていたが、明治33年頃に白い部分の多い、
独特の性質を持った馬込半白がつくられた、市場価値も高く、馬込の特産品となった。
馬込半白は、「つる」の10節位から続いて雌花のつく節成種で、つるの伸びの強くない品種は、つるを立ててやると、よくせ育成することがわかり、馬込では支柱栽培を開発し確立した。
大正9年頃『大農園』という採種組合が、篤農家、河原梅次郎氏を中心に数軒の農家でつくられ、その後、昭和8年には『馬込半白採種組合』が高瀬三次郎氏を代表として設立され、品種の保存と均一化に務めた。
馬込で採種した馬込半白を温暖地の近県をはじめ四国、九州まで栽培指導した河原梅次郎の功績は大きい。
馬込半白が、この地で栽培されたのは昭和38年頃までである。
古来、馬込の周辺では、砂村三寸と川崎三寸(西洋種)が栽培されていたが西馬込の篤農家河原清吉氏らにより、砂村三寸と川崎三寸を交配して、それぞれの長所を受け継いだ、大形で形・色のよい人参に改良され固定された。
昭和25年、大森東部農協(組合長 高橋正夫氏)が「馬込大太三寸人参」の名称で農林省に種苗登録し以後、馬込の特産品となった。
農協では農家が採種した種子を買い上げ、宮内庁の三里塚牧場をはじめ、全国に販売した。また、この時期を境に人参栽培は急速に普及した。
馬込で人参栽培が盛んであったのは、昭和38年頃までで、農地の宅地化とともに除々に減少した。
大田区のご厚意により建立 平成8年3月吉日 JA東京大森
樋口先生は、元カメラマンで、ネット上にホームページが掲載され始められた頃の2005年、デジカメの機能に着目、独学でホームページを作成し、地元の文化を歩いて掘り起こしはじめたという方。
第二京浜沿いのファミレスで待ち合わせたが、樋口先生は先にみえていて、タネを託された経緯について伺った。
継続的に採種してきた、先人の労苦や思いを受け留めるには、専門的な機関等に託すことが最善で、1〜2の機関を候補に挙げ、採種の継続と、希望者への種子の配布などを行ってくれるよう交渉していることを、樋口先生に伝え、貴重な種をお預かりした。
樋口先生のHPでは、地元の農家に直接取材した内容が紹介されている。
馬込半白節成胡瓜
私の本や、ホームページも紹介していただいている。
樋口先生ありがとうございます。