2015年02月15日

福島県南相馬市立高平小学校で、二宮尊徳の胸像に巡り合う。


先日、「子どもに笑顔を!」プロジェクトで南相馬市立高平小学校に伺ったが、「二宮尊徳翁像」の石造りの胸像が校庭を見つめていた。

珍しい像なので、裏にまわってみると、建設は昭和16年5月3日とあっが、その年の12月に太平洋戦争は始まった。

当時の経過は、同校には残っていないようだが、政府は武器生産に必要な金属類の不足から、昭和17年、18年には金属供出を行っている。
これにより、全国の銅像や寺の梵鐘等が供出され、小学校にあった二宮金次郎の薪を背負った銅像は溶かされてしまい、同校の銅像も作って1〜2年で供出されてしまったようだ。






尊徳 (2).jpg

上の画像をクリツクする。

昭和49年9月8日に胸像建設の文字も掘り込まれていることからすると、30年近く経って空いていた台座に、この二宮尊徳翁の胸像が建設されたようだ。




1-2.jpg


もう10年近くなる昔だが、二宮尊徳の話をする機会があって、あちこちの二宮尊徳翁の彫像を調べたことがあったが、

上の画像をクリツクする
同校の胸像は初めて見るデザインだ。

最近建設される「二宮金次郎」の彫像は、その教えとは別に「歩き読書」を、子供たちが真似をして交通事故にあったら大変と、デザインは木に腰を下ろして本を読むようなものも現われている。

南相馬市高平小学校では、「種徳(徳を植える)」によって、特色ある教育を行っていることは、当ブログで紹介したが、
但野真一校長に、二宮尊徳については、授業でどのように教えているのかを伺うと、4年生になると、報徳仕法について学ぶと云う。

徳川の幕藩体制下の諸国諸大名の財政は元禄時代以降、たび重なる凶作でひっ迫していくが、尊徳は、報徳仕法で故郷小田原藩の財政を再建をさせている。

相馬藩もしかりで、財政ひっ迫を憂いた若き藩士富田高慶が、天保10年(1839)に尊徳の弟子となり、尊徳の手足となって報徳仕法を体得する。
尊徳が弘化元年(1844)相馬藩の長期財政基本計画を画策し、高慶や、斉藤高行によって翌年から農村復興事業が始まっている。

尊徳の一番弟子高慶は、明治13年(1880)「報徳記」を著し、以後尊徳の報徳仕法が国民に知られるようになる。

地元相馬が輩出した先人の思いを、授業の中で・・・・
「積小為大」小さな努力を積み重ねていけば、大きな収穫や成果に結びつく。
「勤労」自分に出来る仕事で社会貢献すること。
「分度」一人ひとりが、自分の立場をわきまえ、ふさわしい生活を送ること。
「推譲」余財を生み出し、村のため人のために使えば、家々や村も反映する。
「至誠」真心が伴う事が大切。
を、学んでいるという。


先日、鈴木俊彦さんの出版パーティーで、二宮尊徳の研究家・八幡正則先生にお会いしたが、同校の取り組みをお伝えしようと思っている。



posted by 大竹道茂 at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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