台東区谷中区民館で開催している5回講座「江戸東京伝統野菜で東京再発見」の、第1回は「江戸東京野菜とは」と云うことで、概要をお話したことは当ブログで紹介した。
第2回は、「台東区周辺の農業」がテーマ。
参加者の素性は個人情報の問題もあり、伺っていないので、どのような方々なのかは存じ上げないが、失礼があってはと、
台東区の方々に話をするとなると、むしろ皆さんの方が詳しいかと思いますが、農業を切り口に、私流で2時間用のパワーポイントを作ってきたので、より詳しくご存知の方は教えていただきたいと頭を下げて始まった。
江戸東京野菜の「ツマモノ」は、江戸の食文化のひとつだが、かつて本所、向島、浅草などの料亭の求めに応じて、近隣地域の農家で栽培されていたが、関東大震災以降、被災者の住宅用地となった台東区、荒川区の農地は無くなり、産地は隅田川を遡って足立区栗原、扇、本木、伊興の地に根を下ろした。
紫芽(ムラメ)、穂紫蘇、鮎タデ、芽カブ、サンショなどについて紹介したが、
前日、足立区農業委員会の荒堀安行会長にお会いした時に、事前にお願いしていた鮎タデをいただいていたので、皆さんに鮎タデの葉をちぎって、揉んでから噛んでいただいた。
「辛い!」
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皆さん、「タデ酢」はご存知のようだが、辛いことは知らなかったようだ。
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台東地区が掲載された古地図を見ながら解説。
家康が戦国の武将として、兵糧責めから江戸を守るため、小名木川を開削して行徳から塩を運んだが、葛西地区からの新鮮野菜も、江戸の各地にあった大小の市場に運ばれた。
そしして、谷中ショウガ、三河島菜、寺島ナスの産地、4代将軍家綱の御前栽畑などを説明
「地域雑誌、谷中、根岸、千駄木」、いわゆる「谷根千」は、2009年春に惜しまれて廃刊となったが、
「其の三十二」に、「夏は谷中生姜」が特集されていて、「日暮里駅前はショウガ畑だった」とある。
沢野庄五郎翁の話では、明治16年秋に上野から熊谷間に鉄道が開通し、生姜畑の上を蒸気機関車が走るようになったことから、産地は尾久から埼玉へと移っていった。
横山庄右ヱ門翁は、「我が家の農作物」を書いているが、葉ショウガの荷姿を紹介している。
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江戸東京農業説明板が建っている、諏方神社は谷中の山の諏訪台に鎮座している。
江戸名所百景「諏訪の臺」として広重が描いているが、
日の暮れるのも忘れて見とれる里として、日暮里と呼ばれるようになった。
諏訪台から見下ろすあたり、谷中本村と隣の新堀村で、ショウガを栽培していた。
この種ショウガは、川口市赤山から仕入れていたという。
同誌には、横山庄右ヱ門翁が、先が曲がった熊手ねぎの荷姿、まるき方を紹介しているが、栽培の仕方はないことから、熊手のように曲げる技術について説明した。
帰りに、皆さんには「鮎タデ」を一本ずつ、お土産に差上げた。
尚、同講座には「農」のある暮らしづくりのアドバイザーとして(一財)都市農地活用支援センターから派遣された。