2015年06月15日

第3回「伝統の江戸東京野菜」は、砂村地域の江戸東京野菜を話す。


「伝統の江戸東京野菜」講座の前回第2回は、「江戸東京野菜とは」として、概論をお話したことは、当ブログで紹介したが、
第3回も、砂町区民館で「砂村地域の江戸東京野菜」に絞ってお話をした。

前段で、江東区の皆さんに、江戸東京野菜を伝えるきっかけになったのが、
2008年の「田圃の学校」だったり、「えこっくる江東」での江戸東京野菜の講座だった。

農地の無い江東区の皆さんは、江東区の歴史を背景に農業に対して真摯だったと・・。



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江戸の昔、亀戸は水田が主で、畑は香取神社と水神宮の付近にあったと史実にある。

4丁目の常光寺の西に、北十間川の地蔵河岸があったが、その北にあった畑で亀戸大根の採種を行っていたようだ。

亀戸、大島辺りからも相当畑作物が生産されていたようだが、砂村の生産物は、小名木川の北を流れる竪川筋の四ツ目市場よりは、両国橋際の市場や神田市場に多く出荷していたようだ。

亀戸では大正8年まで農業が行われてた。




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今回は、「砂村地域の江戸東京野菜」と云うことで、砂村三寸ニンジンの復活栽培が、砂町小学校と、第四砂町中学校で、かつて砂町にお住まいだった関口隆雄さんの指導で行われたことを紹介。

また、砂村一本ネギについては、第1回で第五砂町小学校に伺い、銭元真規江栄養教諭の話を聞いているが、ネギ栽培の現状を説明した。

また、今年1月に高知県に招かれた時に、高知出身の植物津学者・牧野富太郎の指示により、高知に持ち帰っていた京菜の話をしたが

京菜は、安政年間、砂村で栽培されたが、亀戸から種子を得て栽培されたようで、当初は糸菜とか水菜と呼ばれて大かぶだったが、その後、京菜は江戸市民の好みで広茎になっていった。

江戸時代末期には、亀戸から奥戸に種子が伝わり、それが各村に普及したと云われている。


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上の画像をクリツクすると拡大。

砂村は、日本橋魚河岸の魚のアラなどを、落ち葉と混ぜて発酵させ、促成栽培に用いたが、促成栽培を始めた松本久四郎の墓が、江東区登録史跡になっている。

追伸


砂町の小・中学校で砂村三寸ニンジンの栽培指導をされた、関口隆雄さんはかつて砂町にお住まいだったことから、7月9日に開催される最終講座の時間を割いて、砂町に農業があった頃の話を中心に私とのトークショーを予定している。お楽しみに。

尚、同講座には「農」のある暮らしづくりのアドバイザーとして(一財)都市農地活用支援センターから派遣された。


追録


講座に参加されている中瀬勝義先生については、第1回掲載ブログの追録で紹介しているが、
中瀬先生は、講座の後、お仲間と「東京都特産砂村葱採種場」が描かれた生田神社隣の公園に行ったことを、「江東自転車エコライフ通信136号」で紹介していた。

よく見るとその中に、亀戸水神宮の写真と、江東区登録史跡「松本久四郎墓」の写真があったので、中瀬先生にお願いして、メールで送って戴き、早速今回のパワーポイントに組み込んで、砂村地域の農業として紹介した。

中瀬先生ありがとうございました。
posted by 大竹道茂 at 00:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 食育・食農・講演会等
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