前回の第2回は、台東区周辺の農業に絞ってお話をしたが、今回は屋外見学会だ。
JR西日暮里の改札に9時50分集合と云うので、30分前には着く予定でいたが、家を出る時間を間違えて、予定の急行に行かれてしまい、次の電車に乗り込んだが心配しながら西日暮里に向かった。
その後の乗り換え等が順調で、5分前に集合場所に到着した。
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屋外見学のコースは、JR西日暮里から歩いて諏訪台へ、。
その後、馬の背のような諏訪台から、富士見坂、そして谷中霊園の五重塔跡と石黒氏之墓、
再びJRに戻って、日暮里から三河島へ、三河島稲荷、荒川区立峡田小学校で、解散という行程だ。
諏訪台に鎮座する諏方神社の農業説明板に案内。
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説明板の辺りから望む景色は、かつて日が暮れるのを忘れてしまう美しさと云われて、日暮里となった。
明治16年に、ショウガ畑の上に鉄道が敷かれてから産地は尾久方面に移っていった。
この諏訪台からみえる辺りが、ショウガを栽培していた谷中本村と新堀村だった。
江戸には富士信仰からか富士見坂はたくさんあった。
この地からも富士山が眺められたが、丁度3年前の2013年6月22日、おりしも、ユネスコの世界文化遺産に富士山が登録さられた時に、台東区千駄木のマンション建設が8階を越えたところで、富士山は見えなくなってしまった。
荒川区教育委員会の説明板には、最後に小さい字で「都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。『関東の富士見百景』にも選ばれています。」とあるが、見えていた当時の写真があってもいい。
因みに、見えていた時の富士はここから
2010年に東京都公園協会から依頼されて「緑と水のひろば」に小松菜を書いたが、あの号の表紙が目黒の富士見坂だったのを思い出した。
目黒の富士見坂はビルが低く、高層に建て替えられない限り、しばらくは富士山を眺められるようだ。
幸田露伴は谷中天王寺町に住んでいて、日々、天王寺の五重塔を眺めていたという。
明治24年11月に、名作「五重塔」を発表している。
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残念なことに、五重塔は、昭和32年7月6日放火により焼失した。
跡地の柵には、火に包まれた五重塔、鎮火した五重塔の写真も貼られていた。
3メートルの谷中の天王寺五重小塔が、武蔵深大寺に残されている。
五重塔跡から通を挟ん南西の角に石黒氏之墓
石黒忠悳(1845〜1941)が、昭和2年3月(1927) に之を立てるとある。
戦後の食糧不足は、危機的な状況になっていた。
この状況を乗り越えるためには、全国に散在しているかつて内原(茨城県)で訓練を受けた農業増産推進隊員などを、もう一度結集して日本農業を再建しなければならないと考えたのが、元農林大臣で農政の神様と云われた石黒忠篤で、世話人として世田谷区等々力の篤農家・大平信彌氏に協力を求めた。
大平氏は、東京の若い後継者達に声をかけると、都内各地から自転車に乗って等々力の大平宅に集まった。
大平氏は、明治神宮への奉納と共に、農産物の増産を呼び掛けた。
因みに、大平氏の娘は美和子さんで、江戸東京野菜の城南小松菜を採種し続けていた。
昭和23年11月23日(新嘗祭)、第一回全国農林産物品評会(石黒忠篤会長) が明治神宮の外院廻廊で開催されたが、
昭和37年からは機構が拡大され、財団法人日本農林漁業振興会が誕生し、農林水産団体等が主催する都道府県単位以上の品評会、共進会等に発展し、昭和53年からは「農林水産祭」となって今日「実りのフェスティバル」に至っている。
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「明治神宮農林水産物奉献会創立30周年記念 都市農業に息づく心」より抜粋。
石黒忠篤の父石黒忠悳は、陸軍初代軍医総監で「長生法」と云う小冊子を発行、牛乳や肉食の奨励を行った。
日暮里から常磐線で三河島駅で下車、歩いて三河島稲荷神社に到着、銘々が参拝した後、三河島菜と三河島エダマメについて説明。
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明治29年(1896)に、田端、土浦間に鉄道が開通、その後、38年には三河島駅が開業したことから都市化の進行が進み、産地は尾久、更には埼玉に移っていった。
大通りから、横道に入った三河島稲荷神社の辺りの旧道は、農道のまま今に残っている。
時間に余裕があったので、荒川区立峡田小学校の校門の前で解説。
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昭和63年に第七峡田小学校の6年生が「校章は、三河島菜か?」の調べ学習を行ったことを紹介した。
三河島菜を見た事もなかった生徒達が苦労した話を・・・・・
今では、三河島菜が復活したことで、抽苔した三河島菜を見れば納得する。
第六峡田小は、戦争で焼けたことから廃校となり、第一峡田小と第八峡田小は生徒が少なくなったことから統合し、第一峡田小の建物で、新たに峡田小学校が誕生した。
一時は、峡田を冠した学校は9校あったが、現在は7校になってしまった。
事務局さんが今回の感想をメールでくれた。
「実際に元農地の場所を見て、変遷した理由や、おもかげが残るところをお話いただいたことで、より江戸東京野菜について理解が深まったのではないかと思います。
私も、実際にその道を歩いた後で、ここがかつて農道であった。とお聞きして、驚きとともにより深く心に残りました。」
事務局さんありがとうございました。