台東区が企画した「江戸東京伝統野菜で東京再発見」で、台東区で農業を話すことになったが、古くから浅草寺を中心に市街化されて、浅草寺の裏手一帯には水田地帯が広がり、伝統野菜となるとみるべきものは残っていない。
3回の屋外見学会は、日暮里から、三河島を歩いた。
特に、第4回目の講座は農家見学会をしたいと事務局から相談があったが、台東区には農地はない。
そこで地域を広げてみて、農地法上の農地を探してみると、日暮里から舎人ライナーに乗れば足立区の生産者を皆さんに紹介できると、事前に生産了解を取ってから、講座の計画に加えた。
足立区の長い歴史の中で主要な農業は水田だったが、用水を利用した農業のひとつにハス田やセリ田があった。
昭和40年代の高度経済成長時代に宅地化が進行し、家庭の雑排水が用水に流れ込んだことで、稲作ができなくなり水田が激減、ハス田やセリ田もなくなり近隣の茨城などに産地は移っていった。
何年か前に、舎人ライナーの谷在家駅と高野(こうや) 駅の近くに蓮田がまだ残っていると聞いて行ったことがあったが、そのことは当ブログで紹介している。
久々に舎人ライナーに乗ったことから、時間的に余裕があったので、高野で途中下車して、残っているか、ハス田の存在を確認してきた。
残っていた。まだ咲き初めようで、チラホラ咲いていた。
今回、農家見学として、最初に伺ったのは、足立区舎人の横山修平さんで、ツマモノの取材でお邪魔したことは、当ブログで紹介している。
資料としては、「とうきょう農紀行」に掲載された、横山さんのページをコピーして皆さんに配布した。
横山さんは江戸時代から続く農家で12代目。
足立区は東京の穀倉地帯で、高度経済成長期の持家政策によって、昭和40年代、足立区の水田は宅地に変わっていった。
これにより用水には、家庭からの雑排水が流れ込み水田は続けられなくなり、特に舎人は昭和40年代まで稲作栽培は続けられていたが、用水が止められたことから、畑作農業に大きく変わっていった。
横山さんは、一時企業に勤めたが、先代が亡くなったことから就農することになった。
農業の経験はほとんどなく、地元JA足立の後継者組織に加わり、先輩などから習いながら農業技術を学んだという。
横山さんの畑は、この時、わけぎと枝豆が育っていて、皆さんを畑に案内し、説明してくれた。
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この時期のメインは、わけぎで、「東京わけぎ」として販売している。
横山さんのお宅は、ご夫妻と息子さん夫婦の4人で作業をしているが、
丁度伺った時には、収穫してきたわけぎを1本いっぽんに分け、土のついた外皮を剥いで、太さ長さをそろえで箱詰めをしていくと云う出荷作業を忙しくしているところだった。
2軒目のお宅は舎人ライナーを挟んで東に行った同じ舎人の新井園芸に伺った。新井園芸を経営する新井宏治さんは、足立区の有能な農業経営者として現役時代から親しくさせていただいている。
特に、早くから先進的な農業に取り組み栽培回転を増やそうと模索していたが、親戚の方からのアドバイスで、水耕栽培に着目し、1000坪の大型ハウスに、水耕設備を導入して生産回転を12回まで増やし、経営を軌道に乗せた。
当日は、ハウス内は暑いことから、新井さんはみなさんを気遣って、ハウス横の木陰の下でお話をしてくれたが、施設内も見せていただきたいので、お願いして施設の見学をさせていただいたが、確かに暑い。
新井園芸の横には、埼玉県の見沼からの毛長川が流れ、中川に注いでいるが、両岸は堤防があり0m地帯で、ヨシが鬱蒼としていた。
ハウス内では、播種をするところから説明をしていただいた。
この時期、ハウス内で見かけたのは、サラダ菜、フリルレタス、紫水菜のタネが周期的に播かれていた。
最近の傾向としては、これまで栽培してきた水菜は頭打ちで価格も低迷していることから、昨年あたりからポリフェノールを含んだ、紫水菜の栽培に切り替えたという。
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播種された種から芽を出した、苗をみせていただいた。
帰りには、1人ひとりに、2束ずつ紫水菜をお土産に頂いた。
今回のお2人は、まったく異なる農業形態で、都市農業の多様な一面を見学いただいた。
新井さんのお宅は、舎人ライナーの舎人駅の方が若干近いが、終点の見沼代親水公園駅から乗車しようと向かった。
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舎人では昔から氷川神社で暮れに滝野川ゴボウを販売する「牛蒡市」が行われていて、1度は行こうと思っていたがまだいっていなかった。
駅まで来て、観光案内版を見ていたら、牛蒡の市が駅近くの氷川神社で行われることがわかった。
折角来たので、氷川神社に行ってみた。
鎌倉時代にの正治2年と云うから1200年に創建された.
現在の社殿は天保7年(1836) の建築で、総欅造り。
特徴は、社殿一面に施された彫刻美でね向拝の両柱には昇竜と降竜など彫刻が刻まれている。
境内に色あせた説明板が建っていた。
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江戸時代に舎人は赤山街道の宿場町で、「牛蒡の市」に代表される市場町としてにぎわったという。