信州高遠藩主内藤家の屋敷地跡(現・新宿御苑)は、大政奉還により、明治5年 明治政府の「内藤新宿試験場」として誕生し、西欧から近代農業技術を導入するとともに、国内農業の発展を推進した。
同試験場は、その後農学校、御料栽培所、皇室庭園と変遷を遂げるが、その主導的な役割を担ったのが、近代園芸の祖といわれる福羽逸人です。
先日「内藤新宿試験場と福羽逸人」をテーマに新宿御苑スタディー&カフェが開催され、福羽逸人の研究者でもある本荘暁子さんが、講演を行った。
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主催者としてNPO江戸東京野菜コンシェルジュ協会の納所二郎理事長の挨拶で始まり、引き続き、本荘さんの講演となった。
TBSテレビ 日曜劇場「天皇の料理番」 21日放送で、福羽逸人が登場した。
フランスから戻った秋山徳蔵(佐藤健)は、大膳寮の長である大膳頭(だいぜんのかみ)・福羽逸人(浅野和之)から、宮内省大膳寮初代司廚長の辞令を受ける。
近々行われる大正天皇の御大礼メニューをつくるように福羽から命を受ける。
徳蔵が、パリで食べたザリガニ料理を作ると云うので、福羽は、北海道支笏湖産のザリガニ3千匹を探し出し終始徳蔵をサポートし、メニューは出来上がる。
本荘さんは、新宿御苑の歴史と共に、大膳頭としての福羽についても、当時の新聞記事を示して説明した。
大正3年(1914) 58歳 大膳頭に任命される。
大正4年(1915) 59歳
大正天皇の即位礼「大饗」の統括指揮を行う。
1800人分のスッポンの御調理
国民の期待高まるニュース報道
讀賣新聞 大正4年11月16日
装飾成れる大饗宴場
◆ 大饗宴場を飾る山菊の納入
◆余は更けぬ仙洞御所(京都)
暁の食事 宮殿下と高官達に賜ひし御献立
◆御台所の模様
目の廻るような料理方と配膳係
◆大饗宴支度のお手伝いに京の娘さん21人
讀賣新聞 大正4年11月17日
大饗1日 神代なからの饗宴
大饗勅語
「朕大礼の典儀を挙行し、ここに饗宴を開き、
各国代表者ならびに諸大臣等と歓をともにすることを得るは、
朕のはなはだ喜悦するところなり
ここに友邦の君主および大統領の健康を祝し、
あわせて交際のますます親密なることを望む」
讀賣新聞 大正4年11月18日
◆歓楽尽きず大饗2日
白羽二重に蔽われた卓子の上には仏国料理が
純銀製の皿に盛られて実に美事なものであった。と、紹介された。
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本荘さんが関わった「福羽逸人回顧録」【解説編】によると、
「第三編第四章 大膳頭に転任と其事績
七月二〇日に大膳頭に任命された福羽は、新宿御苑で培った経験を生かして大膳寮の職務にあたった。
皇室行事の最も重要な儀式のひとつである宮中の食事会・大饗では、外国品の食材の使用を回避し、国内各地の地元特産物の収集に努めるほか、皇室行事における西洋式料理の導入などの改革を行い、大正四年の宮中晩餐会では、料理の内容だけでなく、新宿御苑で栽培した洋ラン等の花々を卓上に飾り会場内を装飾するほか、随所に工夫を凝らした式典を演出した。」とあり、
また、「当時の新宿御苑は、皇室献上用の野菜や果物の栽培を担う御料地として運営されていた。(省略)
皇室直属の園芸場は国家の威信にかかわる重要な役割をもつものであるという志のもと、福羽は職務を遂行した。」とある。
伊藤シェフによる「内藤新宿試験場と福羽逸人」新宿御苑カフェは、ここから・・・
インフォーメーションセンターの入口で草花などが販売されていたので、
八ッ房ケヤキの盆栽を購入した。