早稲田みょうがプロジェクトが主催する「早稲田みょうがゆっくり散策ツアー」の参加者24名が、27日16時、早稲田大学大隈講堂前に集合した。
早田宰教授の話では、近隣住民、生産者、教育関係者、学生などで、皆さん同プロジェクトのブログを見て楽しみにしていたようだ。
参加者の中には、2010年7月17日に実施した「第1回 早稲田みょうが捜索隊」の隊長石原光訓さん(左から3人目)が新妻を連れて参加されたのをはじめ、隊員の伊藤俊文さん(左端)、佐藤圭太さん(左から4人目)も来てくれた。
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あの時は、私を含めて9人に新聞記者が2名だったことから考えると、倍以上で嬉しい限りだ。
毎日新聞の明珍美紀記者、東京新聞の松村裕子記者が書いてくれたことで、初めてメディアに大きく掲載された時でもあった。
挨拶に立った、早田教授は、「早稲田みょうがゆっくり散策ツアー」の主旨等を話されが、資料を用意されていて、参加者に配られ、田圃やみょうが畑が広がっていた、東京専門学校時代の早稲田村の話をされた。
早田先生に指名されたので、石原さんもいらっしゃることから、捜索隊結成のいきさつを、紹介させていただき、その後、生産者の井之口喜實夫さんや、早田先生のお力で、今日多くの皆さんに喜んでいただいている「早稲田みょうが」に発展したのだとお伝えした。
16:00 大隈講堂前集合
16:00 出発〜
@ 早大小野梓記念講堂前「モニュメント早稲田茗荷」
A 天祖神社(早稲田鶴巻町) の境内定植地
B 早大高田記念図書館のみょうが自生地
C 私立早稲田中学・高校(南門通り沿道の定植地)
D 早大西門(早大公開空地の定植地)
17:00頃 終了・解散
@ 小野梓記念講堂前「モニュメント早稲田茗荷」
2009年、早稲田みょうがを探したいので、学生を紹介してくださいと堀口健治副総長にお願いしに来たとき、堀口先生が、校門の前に「みょうが」があると教えてくれたのが、このモニュメント。
最初、校門の前に「みょうががある」という意味が解らなかった。
そんなことを、皆さんに紹介した。
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参加者たちは、盛んに写真を撮られていた。
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天祖神社(早稲田鶴巻町) の境内定植地に向かう途中、現在は国分寺市に移転した早稲田実業の建物。
現在は早大研究開発センターになっているが、
早田先生の資料によると、神明宮の境内を4分の3も削って、早稲田実業を建てたと、新聞記者が嘆いていることが掲載されていると。
同神社(旧神明宮) では、先週早稲田みょうがの奉納があり、当ブログで紹介している。
再び、早稲田大学に戻り、
A 早大高田記念図書館のみょうが自生地。
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図書館前に小庭園ががあり、燈籠や池が設けられているが、池の脇に植栽的にこんもりと、みょうがが自生していた。
また、燈籠前には、認定された「早稲田みょうが」が、井之口さんによって定植されていた。
C 私立早稲田中学・高校(南門通り沿道の定植地)
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早稲田通りから穴八幡宮の交差点を、左に折れて早大南門に向かう右側にある、私立早稲田中学・高校の沿道沿いスペースに定植されていた。
今回参加されていた、同校の高橋智明副事務長(写真右上) が説明してくれた。
何と、赤い早稲田みょうがが顔を出していた。
D 早大西門(早大公開空地の定植地)
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西門脇の早大公開空地の定植地は、先週早田先生が20個以上収穫して、天祖神社に奉納したが、今回も皆さんの前で収穫してくれたが、トータルすると40〜50個収穫したという。
ずいぶん採れたものだ。
この後、希望者は、居酒屋「かわうち」に席を移して意見交換会が行われたが、早大西門(早大公開空地の定植地)で収穫された早稲田みょうが(写真右下)を持ち込んで刻んでもらったが、香りの強い物だった。
因みに、写真右上は、井之口さんが栽培し納品したもので、戻り鰹の妻として戴いた。
早稲田みょうがについては、「早稲田みょうがプロジェクト」での研究が進んでいて、公式サイトに明らかにされているが、早田先生は大隈講堂前に集まった皆さんに、パウチした写真を紙芝居のように示しながら、歴史の一端を紹介された。
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その1つ、早田先生が昨年9月にブログにアップした「ペリー提督も食べていたみょうが」を紹介してくれた。
散策の途中、皆さんから色々と質問があったが、どなただったか、この記事を事前に読んで参加された方から、「ペリーが来たのが、安政元年(1854)年2月10日とありましたが、2月にみょうがあったんですか?」と、云う質問を受けた。
記事を読んでから、ズーと気になっていたという。それはお体によくない(笑)。
確かに記事には、「日本の威信をかけてアメリカの一行を贅沢な会席料理で饗応しました。
当時の有名料亭、江戸「百川(ももかわ)」や浦賀の「岩井屋」が担当した。
そのひとつのメニューとして、茶碗(鴨大身、たけのこ、みょうがの筑前煮)が供されました。」とある。
実は、当時季節外れの高価な野菜が幕府を悩ませていた。
中田新田村(現在の江東区) の篤農家松本久四郎が寛文年間(1661〜1673) に、日本橋の魚河岸から出た魚のアラを、小名木川を船で運び、落ち葉や藁などに混ぜて出る発酵熱を利用した野菜の促成栽培を考案し、寛文10年(1670) には、「たけのこ」が2月に生産されていた。
当時は「たけのこ」と云っても、孟宗竹の筍ではなく、真竹の筍だ。
中国揚子江下流域の江南地方にはえている太い竹が、日本に入ったのは薩摩の島津吉貴公が、元文元年(1736)に琉球交易の中で取り寄せたもので、日本では孟宗竹と呼ばれるようになった。
天保13年(1842)、参勤交代で江戸に来ていた各藩の武士たちは、単身赴任で質素な生活をしているのに、一部の商人は促成物を好んで食べる等、高価な野菜を放置しておくと士農工商の身分制度が崩壊するとして、老中水野忠邦は何度も禁止令を出しているが、この時代になると技術は更に進んで、「みょうが」も栽培されていた。
「鴨肉と、たけのこ、みょうがの筑前煮」とあるが、再現された写真では鴨肉とたけのこの上に新鮮なみょうを刻んで乗せている。
いずれにしても、「たけのこ」と「みょうが」の促成物を使った贅沢な会席料理だったわけです。と伝えると、納得して戴けた。
徳川将軍も食べていた「早稲田みょうが」の紹介も、早田先生の資料にあり、お話をされた。
11代将軍家斉は「みょうがたけ」を食べていたようだが、みょうがの軟白栽培は促成栽培以前から作られていた。
それは、みょうがが生えてくるところを板で囲い、そこにもみ殻を積み上げておくと春には軟白のみょうがたけができる。
この方法は、今でも信州では良くおこなわれていて、道の駅などで見掛けることがある。
将軍が食べていた「みょうがたけ」となると、現在、井之口さんが栽培しているような、促成栽培の技法を取り入れていたものと考えられる。
早田先生は早速フェースブックに掲載された。
早田先生、参加された皆さん、お世話になりました。