農水省に行った帰りに、日比谷公園の中を抜けたら、園内の三笠山の麓に明治時代に作られた「水飲み」があった。
日比谷公園は、幕末までは松平肥前守や、仙台藩伊達家の屋敷などがあった。
明治になると4年〜21年までは、陸軍練兵場になっていた。
その後、日本で初めて都市計画により、計画、設計、造成された近代洋風都市公園の第一号で、明治36年(1903)6月に開園したもので、近くには道路を挟んで鹿鳴館もあり、西洋文化普及の先駆的役割を果たしていた。
「水飲み」は、お堀端の晴海通り側の同公園内に設置されている。
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説明板には、「馬も水を飲めるような形に作られており、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時がしのばれます。」とある。
昔、中野区鷺宮の篠兼太郎さんがご存命の頃聞いた話だが、練馬ダイコンを積んだ荷車を牛に引かせて京橋大根河岸に向かった時に、半蔵門からお掘りに沿って日比谷公園の脇を通ったと云っていたから、この水飲みを使ったかもしれない。
JR新宿駅東口を出たところのイベント広場の一角にある「みんなの泉」には、赤大理石の水飲み施設「馬水槽」があるが、かつて「江戸東京 農業名所めぐり」(農文協)の中で、紹介した。
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「みんなの泉」由来には、
「東京の上水道育ての親、中島鋭司博士が明治34年から欧米諸国視察した際、ロンドン水槽協会が東京市に寄贈されたもので、現在では世界に三つしかない貴重なものである。
赤大理石製で上部の槽は馬、下部は犬猫、裏面が人問用と、動物愛護の精神が息づいており、明治から大正にかけては当時の重要交通機関であった馬がよく利用していた。
昭和39年の新宿民衆駅完成を記念して現在の場所に移動、その際「馬水槽」と呼ばれていたものを一般より公募した「みんなの泉」と改称され」、現在では新宿区の文化財に指定されている。新宿ライオンズクラブ」とある。
日比谷公園にある「水飲み」と異なり、イギリス製は馬が数頭余裕を持って水が飲めるような造りになっている。
現在設置されているこの場所にはイベントのステージがよく作られることから、歴史を伝える「馬水槽」は邪魔者扱いで、鎖が張られたりして近寄れないときが多い。
多摩の方では、JR青梅線羽村駅から、羽村の堰に行く途中に「馬の水飲み場跡」がある。
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羽村市教育委員会の説明板によると
「ここには、豊かな湧水を利用した馬の水飲み場がありました。
坂の下に住む農家の人たちは、畑がハケの上(段丘)にあったので、この坂に大変苦労し、肥料や収穫物の運搬は、荷車を引く馬に頼っていました。このため急な坂道を上った所に水飲み場を作りました。
27年(1894)に青梅鉄道が開通してからは、多摩川の砂利を羽村駅まで運搬する馬の水飲み場としても大いに利用されました。
この坂は、近くに禅林寺があるので、お寺坂と呼ばれ、明治時代の中ごろまでは、荷車がやっと通れるほどの道幅でした。」とある。