お正月に、文京区立誠之小学校の栄養士岡本志津子先生からメールをもらった。
当ブログでも紹介した、松丸奨先生の文京区立青柳小学校を、昨年12月に見学されて、江戸東京野菜に興味を持ったという。
まだ、学年を対象としてと云うのではなく、給食委員会で取り組み、食育に繋げていきたいというが、それで結構で、出来るところから取り組むことが望ましいのだ。
そんなことで、同校の要請により、「農」のある暮らしづくりのアドバイザーとして(一財)都市農地活用支援センターから派遣されて伺った。
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同校は、今年度、創立140年を迎えた名門校で、東京大学弥生キャンパスの西、地下鉄南北線東大前から住宅街を抜けて旧中山道を越えたところにあった。
西田義貴校長先生にもご挨拶をさせていただいたが、東京の伝統野菜についての取り組みに、ご理解を頂いていた。
校長室で、岡本先生のお仕事から伺ったが、
毎日の給食の写真とその調理風景を、同校のホームページのトップページに、毎日掲載していて、過去のたくさんのデーターを見せていただいた。
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給食室は衛生上、細菌検査をして食中毒菌がいないことを確認しないと入ることができない。
給食は子どもたちの直接口に入るものなのに、とても閉鎖的でどのように作られているのか知らない方が多く、給食に対して不安や誤解もあるという。
少しでも知っていただき、安心していただきたくて、昨年の10月からホームページの「本日の給食」に、調理風景も公開することにしたという。
ただ作るだけ、ただ食べるだけではなく顔の見える給食づくりを心掛けているという。
驚いた、調理風景に、食材の産地を、毎日掲載するということは凄いことだ。岡本先生の給食に対する姿勢には頭が下がる。
江戸東京野菜の栽培も、その延長線上にあるのかと思うと、ありがたいことだ。
私からは、岡本先生ともう一人の栄養士松江さん、吉田用務主事さんと広田用務主事さんに、江戸東京野菜についてや、東京の小学校で取り組んでいる事例などについてお話した。
青柳小学校の松丸先生に頂いたというタネをお持ちだった。
それにしても、松丸先生は、このようにして江戸東京野菜を広めてくれているのには感謝!
畑も見せて頂いたが、校舎の西側の裏に十分な畑のスペースがあった。
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吉田主事とお話をさせていただいたが、同校の畑でこれまで各学年の栽培サポートをされてきただけに、野菜栽培に造詣が深い。
岡本先生は、マルチシートやネットなどを使わず、なるべく自然な状態で栽培できたらと云うが、それは畑の状態を知っている吉田主事の意見が参考になる。
鍬や、ジョウロ、昔使っていたという小型の耕耘機が置いてあった。
畑の片隅には、、水仙が咲いていたり、在来野菜の蕗が生えていた。
3月までの間に畑を耕して土作りをしようと思っていると云っていたが、先日、岡本先生がメール添付の写真を送ってくれた。
「児童委員会で畑の草取りと掘り起こしを行いました。
子どもたちはとても楽しそうに土いじりをしていて、5年生は来年度栽培委員会か給食委員会かどちらの委員会に申し込めば野菜作りができるかなど話していました。
子どもたちも楽しみにしているようで、何とか形にしていきたいと思っています。掘り起こしをした写真を添付します。」とあった。
吉田主事は、土質は悪くないし、耕せばそのままでも野菜は育つだろうとみていた。
校内の落ち葉を畑の近くのスペースに積んでいて、3年ほど寝かせてあるので下の方の土は、かなりいい腐葉土になっていると云う。
年末に畑や土の空間放射線量も測定し、問題なく低い数値だったというので、安心して栽培できそうだという。
南門のところに広島の、「福山藩江戸藩校 誠之(せいし)館跡 西片2丁目」の説明板が建っていた。
「誠之館」は、福山藩が江戸詰めの藩士の子弟のために設けた藩校である。
福山藩ては、天明6年(1786) 国元に弘道館を、文政元年(1818) 、江戸藩邸であるこの地、本郷丸山(西片2丁目) に文武場を設けた。
嘉永6年(1853) 「中庸」の「誠ハ天ノ道ナリ、之ヲ誠ニスルハ人ノ道ナリ」から名をとり、これを「誠之館」と改めた。「誠之館」では就学義務制をとり、8歳で入学、武芸・漢文講読・剣術・槍術など厳格な子弟教育を行い、有能な人材を育てた。明治4年(1871) 廃藩置県にともない閉鎖される。
その後も阿部家(福山藩) は教育に力をつくした、「学制」 公布により小学校制度が発足して間もない明治8年(1875) 同家から資金、敷地の一部を譲り受けるなどして開校したのが「誠之小学校」である。
郷土愛をはぐくむ 文化財 東京都文京区教育委員会 平成元年11月。 とある。
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校舎の基礎部分に、福山藩邸のなのか石垣が残っていた。
江戸東京野菜コンシェルジュ協会の、上原恭子理事から連絡があり、何と誠之小学校は母校だという。
何でも、誠之小学校から、六中、小石川高校、東大と云う進学校だという。
母校が、江戸東京野菜の栽培に取り組むことに、喜んでいた。