庭の山椒に花が咲いていた。
ひょうごの在来種保存会が「ひょうごの在来作物」を上梓されたことは、当ブログで紹介した。
同誌を読んでいたら、山根茂人会長が「朝倉山椒」について、古老の高階武氏から聞いたとして書かれていた。
朝倉山椒は、兵庫県養父市八鹿町朝倉地区が発祥の地で、貞享元年の雍州府志に「但馬朝倉より算出する山椒を佳となし、京師富小路にてこれを売る」とあり、江戸時代中期には幕府に献上したという記録もある・・・・。
実は「朝倉山椒」を探していたのだ。
唐辛子と云えば「やげん掘」だが、同店ホームページに売り口上が掲載されている。
「武州川越の名産・黒ごま」
「次は紀州有田名産でみかんの粉」、
「江戸内藤新宿は八ッ房の焼き唐辛子。」
「四国へ参りまして高松の国は唐辛子の粉、」
「東海道上りまして静岡は朝倉の粉山椒、」
「大和のけしの実」
「野州日光の名産で麻の実、七色が七色ともに香り・・・・。」
とあるが、
現在縁日で売られている「やげん堀」の口上は、これが元になっているようだ。
5番目に「朝倉の粉山椒」があり、「東海道上りまして静岡」と云うので、静岡県で朝倉の地名を探したがわからず、今一つ腑に落ちないものがあったのだ。
それが、同誌60〜61頁の「朝倉山椒」を読んですっきりした。但馬の朝倉だったのか。
口上は勘違いなのか、いや、間違えのようだ。
「続いて入れますのは、但馬(たじま)の国は朝倉名産の粉山椒」が正しい。
同店に伺うと、朝倉山椒についてはご存じだったが、昔からそう云っていたと・・・、直す気配はないようだ。
まずは、この辺りから直してもらうことが、朝倉の山椒の普及につながるのではないだろうか。
同誌では、生産地として、JAたじまを紹介していた。
やげん掘に伺うと、朝倉山椒については生産量の関係で、現在は和歌山産の「ぶどう山椒」を使っていると云う。
この山椒、葡萄の房のように実ることから名付けられたもの。
江戸のやげん掘では七色唐辛子、関西では七味唐辛子と云っていたが、最近はやげん堀でも七味になってしまった。
何故変わったのかを、やげん掘りの物知りに聞いてみた。
何でも、戦争中に「色」とは如何かと、「愛情がらみの色」の意味が敬遠されて「味」に変わったと、教えてくれた。
「七味」とは情緒がなくなったものだ、色好みの江戸っ子は「七色唐辛子」と云いたいネ!
江戸の七色唐辛子は、内藤トウガラシを焼唐辛子にして香りを生かし、辛い唐辛子は四国産を多めに入れた。
京都清水寺の七味唐辛子は、朝倉の粉山椒を多めに山椒味。
善光寺は八幡屋礒五郎の七色唐辛子は、江戸と京都の中間の味とか、
江戸東京野菜の山椒としては、ツマモノに「木の芽」があり、足立区・皿沼の横田夏夫氏が栽培し出荷していて、NewsTokyoで紹介している。
一枚一枚大きさもそろえて、丁寧に箱詰めされている。
これは、江戸のツマモノ文化の歴史で、品質が上物なのが「木の芽」で、形、大きさが不ぞろいなものを集めたものは「地芽」と築地では区別している。
七色唐辛子の口上では、内藤トウガラシを普及している成田重行先生から、「『武州川越の名産・黒ごま』も川越が黒ごまの産地だったことはない。
しいて理解するには、川越が産物の集積地であったことから川越から仕入れていたのだろう」とのご意見も・・・・