文京区立誠之小学校(西田義貴校長)で江戸東京野菜の栽培を始めるということで、ブログに掲載したら、そこから色々とご縁が生まれた。
江戸東京野菜コンシェルジュ協会の上原恭子理事がOGだったことは、当ブログで紹介した。
そもそもは、同校の岡本志津子栄養士から、江戸東京野菜の栽培に取り組みたいというので、相談に乗っていたが、4月の異動で区立中学に転勤された。
4月22日に、江戸東京野菜の話を、生徒にお話することになっていたが、松江美穂栄養士が引き継いでくれたので、5年生(3クラス)の学年主任と綿密な連絡を取っていただき、計画は実行された。
江戸東京野菜コンシェルジュ協会では、上原理事と、小金井市立小学校で食育を推進している、松嶋あおい理事も参観に来ていた。
井上光広副校長に紹介をいただいたが、
前任校が亀戸ダイコンを栽培されている江東区立香取小学校で、
江戸東京野菜にはご理解をいただいていて、これもご縁だ。
西田校長は出張されていたが戻られて参観いただいた。
これまでの経過は上の画像をクリックする
江戸東京野菜のお話は、42品目もあるので、特徴のある品目を選んでとも思っていたが、松江先生から、春〜夏:三河島枝豆、内藤かぼちゃ、馬込半白きゅうり、雑司ヶ谷なす、金町こかぶ、千住ねぎ
・秋〜冬:のらぼう菜、練馬大根、亀戸大根、馬込三寸にんじん、品川かぶ、三河島菜、後関晩成小松菜を、栽培するというので、「誠之小で栽培する江戸東京野菜」として、簡単に紹介した。
文京区も江戸の昔は、畑があり野菜がつくられていた話から入った。
上の画像をクリックする
駒込土物店(つちものだな)が本駒込一丁目にあった。
現在、天榮寺の境内に「駒込土物店縁起」の黒曜石の碑が建っている。
この近くに五つ抱えもあるサイカチの木(イメージ写真)がって、近隣の農家が毎日下町に野菜を売りに行く途中、この樹の下でいつも休憩をしていた。
その内にそこで、野菜を売るようになり、次第に市場として発展していった。
大根やゴボウ、ニンジン、芋など、土の中で生育する野菜が集まり、土物店と呼ばれ、
神田、千住と並んで江戸三大市場のひとつにまでなった。
現在は、中山道を北に行った巣鴨にある豊島市場がそれだ。
文京区の野菜としてはその名が残っているのが「駒込ナス」だが、丸茄子だと聞いていて、まだ探し出せていない。
現在、本駒込の富士神社には「駒込ナス」の「江戸・東京の農業」の説明板が建っている。
青木昆陽がさつま芋の栽培試験を行った小石川植物園(東大附属植物園)も文京区で、園内には自然石に甘藷試作地跡と彫られた碑がある。
「茗荷谷のミョウガ」は産地化されてはいなかったが、文京区の説明板には、「江戸時代、茗荷畑が多かった」と記されている。
文京区目白台の稲荷神社には平田牧場の「江戸・東京の農業」の説明板が建っている。
文京区にも明治中期には、たくさんの牧場があったことを伝えた。
松江先生からの報告によると、今回は、折角の機会だからと、文京区教育委員会から、他校の栄養士も参加できるように取り計らってくれたさそうで、同区栄養教諭の平本紀代子先生をはじめ、転勤された岡本先生など、8名の栄養士さんが参加していただいた。
江戸東京野菜は現在42品目が江戸東京野菜となっている。
授業が終わった後、栄養士の先生方に、一品目でもよいから、江戸東京野菜の栽培に取り組んでいただきたい旨、お願いした。
上の画像をクリツクする
誠之小では、18日に委員会で枝豆の種を植える予定だと云っていたので、22日には芽が出ているところが見れるかなと楽しみにしていたが、都庁に行く予定が入っていたので、授業が終わった後、すく失礼したので見る時間がなかった。
今後、平本栄養教諭、岡本栄養士、松江栄養士、3月まで文京区立青柳小学校にいらした松丸奨先生と、心強い体制が整ってきたことは頼もしい限りた。
皆さんよろしくお願いいたします。
少し早く着いたので、学校の周辺を歩いてみた、文京区は坂の街と云われている。
教育委員会が出版した「ぶんきょうの坂道」(昭和55年版)を持っているが、それには名のつく坂道が106も掲載されていて、殆どが江戸の頃からの名前だという。
この地区の生徒は、かつては写真の階段を使っていたのか、現在は危険なので登り口は塞がれていた。
上の画像をクリツクする
誠之小の畑の下は谷のようになっていたが、石段の「曙坂(徳永坂)」を下って、丸山福山町会に・・・。
そこから、同小を見上げたが高い。丁度、八重桜が葉桜になりかけていた。
古い地図にはここに川が流れていたが名はない。
誠之小の下を回り込むように「胸突坂」を上って途中を右に曲がると、同小の校門に・・・
文京区には、同じ「胸突坂」と呼ばれる坂が他に2ヵ所もある。