今年、江東区立亀戸第二小学校の田中孝宏校長が東小松川小に異動された。
田中校長に前回お会いしたのは3月で、亀戸香取神社で行われた「亀戸ダイコン収穫祭」で、
今年も、同校の生徒たちは立派な亀戸ダイコンを、出品した。
田中校長にアポイントを取った段階で、東小松川小学校について伺うと、蓮田のある学校だというので見せてくださいとお願いした。
昨年9月にJR錦糸町の駅ビル「テルミナ」で実施したオータム・グルメ・フェスタの新企画として、江戸東京野菜の取り組みを行っている小学校を紹介していく案も出ていて、
(株)ロケーションリサーチの瀬川雄貴社長と、(株)錦糸町ステーションビル営業部の高橋千佳係長に同行をいただいた。
校庭の一角にある蓮田を末松睦士副校長に案内いただいた。
かつて、江戸川区一帯は、水田地帯でしたが、コメの収量が少ない深い田では、江戸の中頃からハスの栽培が始まり、葛西レンコンとして昭和40年代末まで栽培が続けられました。
江戸川区東葛西の香取神社には、江戸東京の農業説明板「葛西蓮根」が建っている。
国の持ち家政策もあり、昭和30年代中ごろから水田地帯に住宅が建ち始めると水田のための用水に、家庭の雑排水が流れ込み、用水はどぶ川となり、おのずとレンコン栽培は不可能となり、産地は茨城方面に移っていきました。
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「のぞみの庭の由来」
昭和16年、蓮の栽培が盛んなこの地に本校は誕生した。
昭和47年に父母の奉仕により作られた「のぞみの庭」を創立50周年を記念して改修する。児童が蓮の栽培を通し、勤労を学び、地域を愛する豊かな心を持って欲しいと願うものである。
平成3年11月に建立している。
資料によると「昭和61年に、松江第一中学校が、開校40周年記念で、地域の特色である蓮田を作った。
種バスは、江戸川産の蓮を残している葛西にお住まいの鹿野さんから立派なものをいただき、それを本校も分けてもらって植え付けました。」とある。
正に素性がはっきりした江戸東京野菜なのだ。
そもそも、田中校長が第二亀戸小学校時代は、亀戸地区の小中学校で行われている、亀戸ダイコンの栽培や収穫祭などリーダー的な役割を果たしてきていた。
このことは、当ブログで紹介している。
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東小松川小には、栄養教諭の佐藤寿子先生がいらっしゃるので紹介していただいた。
本会としては、江戸川区の伝統野菜「伝統小松菜」の栽培を通して、江戸川区の歴史文化を4年生以上の生徒に学んでほしいとお願いした。
江戸川区では、小松菜の栽培を行っている学校は多いが、江戸川区の歴史文化と合わせて、伝統の小松菜栽培を行っている学校はないのが現状で、
交配種の小松菜との比較も大切で、このあたりを取り組めないかと、相談した。
佐藤栄養教諭の話では、現在は、3年生が小松菜(交配種) の栽培、4年生がハスの栽培と研究を行っているという。
すでに固まったカリキュラムがあるようなので、無理にお願いはしなかったが、
現在、依頼されて小学校等で行っている江戸東京野菜の授業では、伝統小松菜の話もするが、小松菜のふる里江戸川区の各小学校では、固定種と交配種の区別なしで小松菜の授業が行われていることから、出来そうな小学校があればと、紹介をお願いしてきた。

田中校長の前任校長、菅原修先生がまとめた
「東小松川小学校の歴史〜地域と共に歩んだ75年〜」をいただいた。
A4版で資料ページも含めると100ページにも及ぶ大作。
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「将軍の鷹狩りと小松菜、海苔養殖と蓮根栽培
荒川・中川放水路の開削、小松川小が独立
蓮田の真ん中にひがこま誕生、開校当初の学校
豊かな自然に囲まれて、用水路が縦横に
江戸川区は山形県鶴岡市へ疎開、蓮栽培は明治時代から本格化、
自然とふれ合う「のぞみの庭」、蓮田のある学校
知っておきたい地域の組織」
興味深い見出しが並んでいた。
田中校長は、かつて東小松川小学校で教鞭をとり、今年校長として同校に戻ってこられたことから、同校や地域のことにも詳しく、小松菜の話から、吉宗伝説が伝わるお宅が近くにあると教えていただいた。
学校から100メートルも行かないところに、そのお宅・市川家があった。
インターホンで「臼の宮」の案内をお願いすると、ご当主の實氏が出てこられ、快く受けていただき、旧屋敷の裏に祀られた祠に案内して頂いた。
菅原前校長が記された資料によると、同校に土地を提供していただいたのが市川家だとある。
資料によると、由来は、「徳川8代将軍吉宗が享保2年(1717)12月4日、江戸川に初めて鷹狩りに来た時、市川家(現在の本校PTA特別の相談役市川實さん宅) に立ち寄って、庭にある臼に腰掛け、休んでいったといわれています。
この市川家は、呼び名を久左衛門と言っていましたが、吉宗公の徳をたたえ、この臼を家宝とし、裏庭に小さな祠を建ててお祀りしたので、人々は『臼の宮』と呼んで信仰したといわれています。
市川さんは、本校の土地提供者です。」とある。
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「史跡 臼の宮(市川氏邸内)」。
由来は享保二年(1717)将軍徳川吉宗が、当地遊猟の際、市川家に立ち寄り
庭先にあった臼に腰を掛けて休息せられた。
市川家では吉宗の徳を仰ぎ、この臼を家宝として保存するとともに、
裏庭に小祠を建立「臼の宮」としてまつったのが始まりであるという。
小祠の中には小さな木札が二枚納められていて、
一枚には次のように記されている。
千時享保二丁酉十二月四日当御将軍右大臣吉宗公様
当所江被為遊御成我等庭前江被為掛御腰共節此臼江御休足被為遊候臼也、
東小松川村 市川氏久左衛門謹言
この臼は高さ四九、回り約一七〇(単位センチメートル)である。
この由来を記したものとして「徳川実記」「武蔵風土記稿」と
挿画と和歌の書かれた「四神地名録」がある。
昭和五十三年十一月 江戸川区教育委員会