2016年08月29日

家綱の「御前栽畑」があった隅田村の辺りを佐原滋元先生にご案内いただいた。


寺島なすの復活でお世話になった、向島百花園内で「茶亭さはら」を営む、郷土史家の、佐原滋元先生から電話をいただいた。

佐原先生には、百花園に伝わる七草籠をいただいたことを当ブログで紹介している。

電話は、墨田区にあった四代将軍家綱の御前栽畑の復活をしたいので調査をしていて

当時どのような野菜が栽培されていたか、知っていれば情報を欲しいというもので、早速、持ち合わせの情報を提供した。

私も、現地を見ておきたいので、一度ご案内いただきたいとお願いをしたら、快くお引き受けいただき、東武スカイツリーラインの鐘ヶ淵駅で待ち合わせをした。





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あの辺りは、防災公園になり、大きく変わったと聞いていた。

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家綱の「御前栽畑」を、歌川広重が江戸名所百景の一つに「木母寺内川御前栽畑」を描いている。

絵には、「木母寺」「内川」、そして「御前栽畑」と、あえて行を変えて書いてあり、当時ひとつひとつが名所であった。



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官道と鎌倉街道が交錯する交差点。

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西暦768年、全国の国府を結ぶ官道が整備された。
その後、下総国府と武蔵国府を結ぶために整備された官道が墨田区を横断、鐘ヶ淵を通過している。

そして、千葉で兵を挙げ、古代の官道を攻め上った源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、関東一円に散在する御家人が短時間で鎌倉に集結できるよう、3本の鎌倉街道が設けられ、墨田区を縦断する、鎌倉街道下の道ができる。





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都営白鬚東アパートは、長さ1キロ、高さ40メートルの、防火壁団地として1975年着工、1982年竣工した。

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各戸の窓には、シャッターがつけられ、シャッターが下りれば、完全な防火壁となる






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こんなところに、東京農大の創立者榎本武揚の銅像があった。

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正二位勲一等子爵榎本武揚像とある。
何でも、晩年は向島で過ごしていたようで、大正2年5月、旧幕臣だった江原素六等が発起人となって、これまでの功績を讃え建立している






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防火壁団地を潜り抜けた前に広がっているのが、御前栽畑の跡地(都有地)だという。

墨田区史によると御前栽畑では、
夏牛蒡・夏大根・茄子・大角豆・白瓜・真桑瓜・西瓜・菜・日野菜・小蕪・冬大根・冬牛蒡
三ツ葉・くく立菜・春菊・つくし・たんぽぽ等が栽培されていた。

特に、真桑瓜は、秀忠の時代、御用ウリとして、府中や鳴子の御前栽畑から幕府に納められていて、家綱は子供のころから食べていたもので、隅田村でも美濃国真桑村の真桑ウリを栽培していた。

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首都高速6号向島線がじゃまをして見えないが、その先には隅田川が流れている。






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防火壁団地の下になってしまった「梅若塚」は、同団地東側に、碑が移されていた。






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梅若伝説の木母寺は、同団地西側に移されている。

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家綱の御殿跡はグランドになっていた。






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隅田川神社
源頼朝挙兵の治承4年(1180)当地で、水神の霊験を感じて社殿を造営したと伝えられます。

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この神社には、狛犬の代わりに「亀」が守っていた。
隅田川神社の参道は防火壁団地の境を抜けて、設けられていた。






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鎌倉街道に沿って正福寺があり。

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正福寺鶴岡家墓地より移築したという板碑がある。





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佐原先生には、お話を伺いながら、案内していただいた。
貴重な時間だった。
ありがとうございました。




posted by 大竹道茂 at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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