多摩・八王子江戸東京野菜研究会が主催する“高倉ダイコンを知り尽くそうツアー” は、17日(土)八高線の小宮駅改札集合で始まった。
高倉ダイコンの栽培は、現在八王子市石川の立川太三郎さん一人になってしまった。
そんな、立川さんから、どんな話が語られるのか、楽しみなことだ。
小宮の駅から10数分歩いて立川さんのお宅に着いた、何度か立川さんのお宅に来たことはあるが、車で拝島橋方面から来るので、改めて周りの風景を見ながら歩いてきた。
立川さんのお宅は、宇津木台の山を背にして、南に多摩川の支流・谷地川が流れ、その先の台地に、立川さんが高倉ダイコンを栽培する畑があるという地形で、庭に出て我々を迎えてくれた。
高倉では漬物ダイコンの練馬尻細ダイコンを栽培していたが、大正10年に高倉の原善助さんが、滝野川の種屋から「みの早生」を購入し、尻細の畝の間で栽培したことから、自然交雑して漬物ダイコン用の高倉ダイコンが生まれたとされている。
畑から抜いてきたダイコンを洗い、仕上げは鮫皮で表皮に傷をつけて乾燥しやすくした。
現在では、ブラシ付きの機械で洗い、ブラシで傷をつけるようにしているようだが、白い泡がたくさん出て、谷地川を流れて多摩川が、白い泡で濁ったと云われている。
この季節、八王子八十八景に、石川町の「高倉ダイコンのすだれ干し」が 冬の風物詩に数えられた。
立川さんは、庭に出て我々を迎えてくれた。温かい穏やかな日和だった。
立川さんは、高倉ダイコンの昔ばなしをしてくれた。
八王子は、織物の町として発展したが、その職工さん、女工さんの食事のおかずとして沢庵漬けの需要が大きかった。
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ハウスの中には、立川さんが寝床と云う布団などがたたんで置いてあった。
すだれ状に干したダイコンは、夕方(16:30)には、下して布団の上に寝かせ、この場合ダイコンが縄で縛られたまま、山積みされる。
初めのうちは10キロもあるというから重労働だ。
10キロを支えるフツク(写真中央)。
山積みしたことで、ダイコンが触れ合うなどで、しなやかに、「芯が抜ける」と云う言い方をされたが、風味もよくなるという。
そして、朝(6:30)になると再び吊り下げる。
かつては、路地で行っていたが、ハウスができたことで、雨よけにハウス内で行うが、サイドからは北風が入るように吹き抜けとなっている。
この模様は、後日映像8O2(はちオーじ)の高橋陽さんから記録をいただいた。
立川さんの生まれは、大田区馬込だと伺っている。
立川家で初めて、先代の指導で高倉ダイコンの栽培や、干しダイコンの技術を学んだわけで、干場の資材は50年から70年も前からのものと伺った。
立川さんは、長年の干しダイコンの販売経験から、販売は15本セットにしている。
長いものだけでなく、中ぐらいと短いものをセットにして、漬け込んだ時に隙間ができないようにしているとのこと。
高倉では「すだれ干し」と云うが、練馬では「たち編み」と云う。
これについては、練馬の長老・渡戸章さんに聞いたことがあるが、練馬でも毎日朝晩に、吊り、下しをやっていたと聞く。
真下に蓆(むしろ)を敷いて、そこに寝かせて霜が当たらないように、凍らないように蓆をかぶせる。
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日中は、空いた蓆は、北側に干していた。
漬けた高倉ダイコンは、かつて5月ごろまで出荷されていた。
3月までは、塩を少なく、温かくなるにつけ塩を効かせて漬けた。
立川さんのお宅から谷地川を渡って、多摩大橋通りの坂道を登り切ったと左側の石川台地に、高倉ダイコンの畑があった。
石川台地を、東に少し行ったところが、東光寺大根されていた台地で、市街化される前までは、畑が隣り合っていて、高倉ダイコンが東光寺地区に伝わったとの説がある。
高倉では太い方が美味しいと、また、東光寺では抜きやすい細いタイプと、両地域は独自の発展を遂げている。
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立川さんの畑では、干しダイコン用は残り少なくなっていた。
高倉ダイコンを抜いてから漬けるまでは、お話を聞くと時間との闘いのようだ。
ダイコンを抜いた時には、いつ漬け込むかまでの日程は決まる。
一週間、干した後、すぐにつけるタイミングで、糠などを準備して漬けこまないと、一日遅れても干し上がったダイコンは旬を失い、固くなる。
高倉ダイコンの食べつくしは、明日報告する。