先日、上野池ノ端の水月ホテル鴎外荘で、江戸東京野菜の懐石料理の試食会が行われたことは、当ブログで報告した。
これまで、何度か同ホテルに伺ったが、千代田線の根津駅で下車していた。
同ホテルは、上野東照宮の裏にあたることから、上野駅の公園口から、公園内を北に歩いて、花園稲荷神社の参道から動物園通りに出て、水月ホテルに向かった。
園内には途中、観光資源がたくさんあって、ホテルまでが意外に近く感じた。
鴎外荘からの帰り道、動物園通りから、もと来た道を上野駅に向かったが、来るときは気が付かなかったが遠くに野球場見えた。
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球場入口近くに上野公園管理事務所があったので、
記念球場の事を聞いてみた。
サード側の通りに面して、記念碑があると云う。
子規は、鴎外(1862〜1922)より5つ年下だが、
同じ文学の世界で同時代に活躍している。
「春風や まりを投げたき 草の原」
「正岡子規(1867〜1902)・・・・子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて 間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内 で野球を楽しんでいた。
子規の随筆「筆まかせ」には、明治23年3月21日午後に 上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手で あったことがわかる。・・・
上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、 野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。 平成18年7月 台東区・台東区教育委員会」とあった。
因みに、「日本野球発祥の地」は、学士会館の地だったことは、追録で紹介したが、野球は明治5年に導入されている。

「筍に 木の芽をあえて 祝いかな」
孟宗竹の「筍」も、つまものの「木の芽」も江戸東京野菜だ。
「筍や 目黒の美人 ありやなし」
目黒不動尊の門前で、季節になると筍飯を食べさせていた。
多くの文人墨客も門前を訪れて筍飯を賞味していて・・・。
子規は明治27年3月の末、門前の牡丹亭で筍飯を食べている。
筍飯を運んできた17-8歳の女は、あふれるばかりの
愛嬌のある顔、その仕草に胸を躍らせたのを忘れられず
筍の季節になると、あの美人は今も居るのだろうかと思い出すようだ。
明治35年、新聞に連載中の「病牀六尺」13回に
胸躍らせたその出会いを5月25日に書いている。
余談だが、子規の弟子、高浜虚子は、
「目黒なる 筍飯も 昔かな」
と、品川、目黒が産地だったのは、関東大震災以前で、
震災後竹林は、被災者の住宅用地として宅地化されていった。

何年か前、荒川区の当時観光振興課谷井千絵課長が、江戸東京野菜の「青茎三河島菜」は荒川区の観光資源だとして愛媛の松山市立子規記念博物館に行かれて調べてきて、
「子規が根岸に住んでいた頃、詠まれているんです!」と教えてくれた。
「朝露や 青菜つみ出す 三河嶋」
「凩に 三河島菜の 葉張りかな」
「冬枯の 一隅青し 三河嶋」
「緋の蕪の 三河島菜に 誇って曰く」
何でも子規は、小松菜の句も詠んでいるようだ。