2017年02月04日

先日、同級生が集まって新宿のいつものところで、友人の偲ぶ会が行われた。



JR飯田橋駅東口を出た目白通り沿いの飯田橋4丁目に、飯田橋散歩路の標識があり、「東京農業大学開校の地」が立っている。

明治18年、旧幕臣の子弟教育として設立された徳川育英会の会長に就任した榎本武揚は、徳川育英会を母体とする育英黌を設立して管理長になった。
育英黌には農業科・商業科・普通科の3科があったが、のちに農業科は独立して、わが国初の私立農学校である東京農業大学となっている。

榎本武揚と云うと、晩年は向島に引きこもり、住居跡等、ゆかりの地が多く家綱の御前栽畑を見に行った時に銅像があった。






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千代田区飯田橋4丁目に立つ碑文には
「明治二十四年(一八九一)、 この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番に東京農業大学の前身、育英黌農業科が、徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。
明治二十五年(一八九二)、現在の中央線である 甲武鉄道の新設工事, また農場用地取得のため 大塚窪町に移転しました。」とある。

因みに、大塚窪町は文京区の「教育の森公園」あたりで、1.28ヘクタールの農地を取得、校舎は、大根踊りの詩にもある「青山ほとり常盤松」、渋谷の常盤松御料地に移り、明治44年に私立東京農業大学となった。

その後、戦火により校舎は焼失し、戦後の昭和21年に現在の世田谷にキャンパスは移転した。




研究成果

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先日、前田昭男さんが、柚子胡椒ができたと、生の柚子胡椒を持ってきてくれた。

前田さんは、昨年、新宿御苑で、江戸東京野菜の「内藤トウガラシ」の苗を購入し、菜園で栽培したようだ。

内藤トウガラシ(青唐辛子):200g
乾燥麹:100g
塩:80g
ヘタを切り落とした唐辛子をフードプロセッサーで細切りにする。
麹は同量の40℃の水でふやかし、トウガラシ、塩と混ぜ合わせる。
私は1週間室内で醗酵させ、その後冷凍保存した(柚子が出るまで)

なかなか青ゆずが入手できず、結局黄柚子を使用。緑色が消えた。
黄柚子(大)の3個の表皮(精油部分を)薄く剥いで、
3個のジュースを手絞り、上記全てとプロセッサーで混合。
室内温で保管。
徐々に醗酵が進み、だんだん粒子が細かくなるようです。

上の画像をクリックする
キャップを開けたら、いい香り、ピザにかけていただいたが、美味しいこと。
友人たちといただいた。

柚子胡椒は、胡椒と云ってもペッパーではない。
胡椒の、「胡」は、中国ではシルクロードを経てきた外国の物をさす、
胡瓜(キュウリ)、胡桃(クルミ)、胡蒜(ニンニク)等がそれだ。
日本では、九州をはじめ、中国、近畿、中部の一部の地方で、トウガラシの事を、胡椒と呼んでいるようだ。


本題

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同級生の手島孝治郎さんが12月に亡くなられていたのを、奥様の殖子さんからの寒中見舞いの手紙で知った。

ちょいちょい新宿に集まって飲んでいる同級生で「手島君を偲ぶ会」をやろうと、都合のつくものが集まった。

上の画像をクリックする
赤いシャツの手島さん、この時は元気だったのに・・・・。

新潟県長岡の出身で、北杜夫の作品を愛読するロマン派で、研究室も一緒だったので彼からはずいぶん学ぶことが多かった。

彼は、学生時代に北欧に出かけ柔道を教えていたが、卒業するとスエーデンのサンドビック社に入社、日本にスエーデン鋼を輸出していた。

数年前、夫婦でフィンランドに出かけ、柔道の教え子たちに会ってきた話を聞かせてくれて、歓迎されている様子を掲載したローカル紙を見せてくれた。

お土産に、いただいたトナカイの置物は今でも本棚に飾ってある。いつまでも彼との思い出として・・・・。
ご冥福をお祈りいたします。
posted by 大竹道茂 at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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