2017年05月20日

柏木の成子天神社で、新宿区立柏木小学校の4年生たちに、鳴子ウリの先生だ!と声をかけられた。


先日、新宿区立柏木小学校で、4年生の栽培が始まったことは当ブログで紹介した。

座学の中で質問がいくつもあったが、パワーポイントで説明しやすいように写真に撮っておこうと、新宿に出かける機会があったので、柏木の成子天神社に寄ってみた。

15時になろうという時間だった。
学校帰りの柏木小の生徒らしい4人のグループの1人が、「鳴子ウリの先生だ!」と驚きの声を上げたので、男の子2人と女の子2人が集まってきた。
境内を抜けての帰り道のようだ・・・・・





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同神社には、平成9年にJA東京グループが建立した、「江戸・東京の農業 鳴子ウリ」の農業説明板がある。

授業で質問をした時には、建っていることを知る生徒はいなかったが、授業の後、見に来たらしく「あっちにあるよ」 と教えてくれた。

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成子天神社では「成子」なのに鳴子ウリは「鳴子」、どちらが正しいのかという質問もあった。
神社の記録には柏木村鳴子とあると説明したが、言葉だけでは解かりずらいからシャッターを押した。

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境内の「由緒」には、「このあたりはその昔は柏木村鳴子と呼ばれていた」、とあるから写真に撮った。

文政の江戸町方書上によると、元和年間(1615〜24) 多摩郡柏木村に御前栽瓜田(幕府のウリ畑) が設けられていたとある。

いつの頃だか定かではないが「成子」と書くこともあったようだが、成子神社となったのが明治27年で、昭和3年に成子天神社と改称したとある。






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成子天神社のご社殿には天満宮の額がかかっていた。

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境内の左手には、末社が祀られていたが、その一つが
鳴子稲荷神社とあった。





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今年の2月にブログに書き込んでくれた静岡の杉井籟士さんが資料を送ってくれた。

十返舎一九の「堀之内詣」を読み始めたら第一章に「成子の瓜金色の光を放つ」と出ており、この神田川周辺がまくわ瓜の産地であったことを発見しました。」とあった。

上の画像をタップする
十返舎一九が活動した時代は1789年〜1823年だが、成子と書くこともあったようだ。
杉井さんありがとうございました。


「江都自慢」の番付表を見ると、中段に、ねりま大根、谷中せうが、小松川のな、三河島の漬な、木母寺の芋、と並んで、「四つや 鳴子瓜」とある。
収穫した鳴子ウリは市街地の四ッ谷で販売されていたようだが、四ツ谷鳴子村という地域表示も使われていた。

posted by 大竹道茂 at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸のマクワウリ各種
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