2017年06月18日

明治の初め北多摩の三鷹・府中あたりまでの村々が一時品川県に属していた。


先日、多摩地区が東京府に移管されて100周年を記念した25年前の日本酒が出てきた話を紹介したが、

改めて、神奈川県だった多摩地区が東京府に移管された経過を調べてみた。

それまで大名などが治めていた各藩は廃藩となり、新たに県が置県となった、いわゆる廃藩置県で、多摩地区の大部分は明治4年に新たに置県された神奈川県に編入された。

明治26年(1893)になって多摩地域は神奈川県から当時の東京府に移管されたが、移管について、政府の表向きの説明は、東京の飲み水である玉川上水の水源を管理するため、多摩地区を東京府に移管するというものだったが、背景には勢力を増していた多摩地区の自由民権運動があったようだ。



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しかし、ここに至る間にごたごたがあった。
慶応4年(1868)7月武蔵知県事に任命された旧代官松村長為の支配地域が後に品川県になる。

しかし明治2年(1869)、知県事は廃止され、代官や旗本の旧領は置県された品川県、韮山県、入間県、西端県となった。
武蔵国多摩郡は、品川県、韮山県、入間県などに移ったわけだ。

多摩地区に品川県だったところがあると云うので気になって、品川区文化財係に教えていただいた。

上の画像をタップする
江戸末期に建てられた野崎村の名主吉野家が、小金井にある江戸東京たてもの園に移築されている。

松村長為の支配地域(幕府領)
本宿村、屋敷分村、府中宿ノ内・本町、府中宿ノ内・番場宿、府中宿ノ内・新宿、是政村、常久村、上染屋村、下染屋村、押立村(以上現府中市)  (◎府中宿の本町、番場宿、新宿、是政村で二代将軍秀忠が、真桑瓜の栽培をしている)

恋ヶ窪村、国分寺村、本多新田、内藤新田、戸倉新田(以上現国分寺市)、

上飛田給村、下飛田給村、上布田村、国領村、上給村、矢ヶ崎村、金子村(以上現調布市)、
覚東村、駒井村(以上現狛江市)、

大沢村、野崎村、牟礼村、上仙川村、中仙川村、野川村、北野村、上連雀村、下連雀村、井口新田、(以上現三鷹市)、
吉祥寺村、西窪村、関前村、境村(以上現武蔵野市)、
梶野新田、関野新田、貫井村、上小金井村、下小金井村(以上現小金井市)

松村長為の支配地域(旗本領)
小田分村、人見村、車返村(以上現府中市)、
上石原村、下石原村、布田小島分村、下布田村、深大寺村、給田村、 (以上現調布市)、

以上が品川県になったが、明治4年(1871)11月13日,廃藩置県に伴い品川県を始め、韮山県、入間県、西端県は2年で廃県となってしまい、

12月5日には,多摩郡のうち(のちの東多摩郡の地域)中野村ほか54町村は、東京府に編入となった。
多摩地域の大部分(現在の三多摩地域)は神奈川県に移管された。
明治政府の混乱ぶりがよくわかる。

因みに、多摩郡は、明治11年に西、南、北、東に分割、各郡として制定、東多摩郡も存在していたのだ。

東多摩郡は、明治22年町村制の施行により野方・中野・和田掘内・杉並・高井戸・井荻の6村となる。
29年4月1日,東多摩郡は、南豊島郡と合併して豊多摩郡に編入し,東多摩郡という郡名は廃止となった
現在の中野・杉並両区の地域だ。

さて、神奈川県に移った三多摩だが、それで終わらず明治26年(1893)、神奈川県から当時の東京府に移管されたのだ。

品川県は現在の港区、渋谷区、新宿区内の一部なども入っていたから、今度は23区内も調べてみたい。



posted by 大竹道茂 at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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