先日、江東区立第五砂町小学校で砂村一本ネギのタネを5年生が4年生に伝達し、そのタネを蒔く授業が行われたことは、当ブログで紹介した。
遠くから行くものだから遅れてはいけないとの思いから、時間を間違えて1時間も早く着いてしまった。
折角、時間が出来たので、砂村の情報を収集しようと付近を歩いてみた。
五砂小から北に少し歩いた交番の裏に、富賀岡八幡宮があったので寄ってみた。
夏祭りが行われているのか、幟の他、テントが張られたままになっていたが、鳥居をくぐった左側に、砂村新田開拓者 砂村新左衛門顕彰碑が建立されていた。
砂村が、江戸の農業先進地になっていった、基盤を作った人物だ。
碑文を読むと
福井県鯖江市出身の砂村新左衛門と、その一族が宝六嶋を拠点として、湿原や浮州を干拓と埋立てによって、砂村新田を万治二年(1659)に造成しました。その範囲は現在の南砂一丁目から七丁目までと東砂八丁目を含むほぼ全域に当ると伝えられています。
私達が住む砂町の基礎を築いた偉大な開拓者、砂村新左衛門の遺徳を偲び、後世に永くその功績を顕彰するため、心ある人々の協力を得て同氏にゆかりの深い元八幡宮境内に記念碑の完成を見ることができました。
平成十一年十一月二十一日建立 室橋昭謹書
第五砂町小学校は東砂八丁目にある。
砂村新左衛門が造成した一帯の中でも、南砂三丁目と東砂八丁目の南は海だった。
現在の新砂一帯は明治時代以降、昭和に入ってから埋め立てが進んだ地域で、東西線の南に当たる。
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東西線南砂駅近くの南砂町駅前公園交差点から北を見ると高低差3メートルぐらい下っている。
そこから五砂小へと東に向かうと、南砂七丁目交差点があるが、交差点(写真下)からと五砂小近く(写真上)から見ると、同じように埋立ての段差がありる。
この辺り、次々に高層マンションが建設されていて、南砂駅も朝夕は混雑することから、数年前から上り下り2本のホームを建設中だし、五砂小を例にとると4年生は4クラスで138名になっていて全校でも700名を超えている。
五砂小で、今年も砂村一本ネギの栽培が始まることで、かつて東砂を歩いたことを思い出した。
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東砂三丁目に、城東区と呼ばれた時代に撮られた東京都砂村葱採種場の写真があった。
土地の人は昭和30年頃の写真だろうと云っているようだが、設置されたのを調べてみると、城東区とあるから本所区と合併して江東区になる昭和22年以前だ。
しかも砂村とあるから、砂村が町制施行して砂町となるのが、大正10年7月だから、それ以前の写真で、その後、大正12年には関東大震災が発生している。