2017年09月11日

タネはあるけど栽培されなくなった「つまみ菜」の経緯を江戸川の農家に伺った。


8月11日に販売されたポテトサラダを食べた客から腸管出血性大腸菌O157が検出された、というニュースが全国を駆け巡った。
ポテトサラダが感染源としていたが、8月26日に調べたサンプルは、陰性と確認され、いまだに原因は究明されていない。

実は20年前にもO157事件が発生して、大きな事件となった。
あれは、大阪市堺市で発生したもので、時の厚生大臣は感染源を「カイワレ大根」とする記者会見を早々と行った。

これにより、カイワレ大根を生産する全国の生産者は大きな被害を受けたが、原因は判明しなかった。

先日、第五砂町小学校で行われた、砂村一本ネギの栽培指導で、江戸川にお住いの関口隆雄さんにお会いした。




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関口さんは先代から引き継いだ「つまみ菜」栽培をしていた37歳の時、農業後継者として1974年日本農業賞東京都代表に選ばれた。
当時、畑の南側には東西線が南砂、葛西間の高架を作っていた。(写真は現在の小島町2丁目)

上の画像をタップする
そもそも「つまみ菜」は、江戸時代、深川の百姓、細川市右衛門が、蕎麦屋から何か青味がないかと頼まれた。
思いついて、油菜のタネを水に浸してから畑に厚蒔きし、葉が数枚出たところで、摘まんで収穫して持って行ったことが始まり。

その後、明治になって双葉が大きい雪白体菜が中国から入ってきた事からこれに切り替わった。
葉の形が「杓子(しゃくし)」に似ていることから「しゃくし菜」とも呼ばれている。

「つまみ菜」は、タネを蒔いて2週間、葉が2〜3枚出たところを朝採りで、片手で摘まんで専門の包丁で土がつかないように刈っていくからその名がある。

鮮度を重視するから消費地に近い深川で始まったが、都市化が進むと栽培地は東の砂村に移り、その後、関口さんのお宅が江戸川区西葛西に移転すると、お祖父さんやお父さんが栽培面積を広めていった。




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1979年に撮影した「東京農業と都民の暮らし」でも、江戸川区の農家が収穫する様子を紹介している。

1996年、カイワレ大根が原因とされたO157事件が発生以来、需要が急激に減少したことから、栽培はやめざるを得なかったと云う。





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3月から10月まで、冬の小松菜に変わる青菜として、蕎麦屋さんからの需要が多かった「つまみ菜」。

大正時代から1996年まで80余年の食文化をはぐくんでいた「つまみ菜」は、「雪白体菜」として固定種のタネが残っているだけに、野菜工場のようなところに向いた野菜かもしれない。

追伸


関口さんの先代は砂町で農業をしていたことから、砂町のことは詳しく、江東区の小中学校で江戸東京野菜を普及するときには、栽培指導でお願いしている。

2010年に砂町小学校で、 2011年には第四砂町中学校で、砂村三寸ニンジンの栽培指導をお願いしている。

2015年には江東区が企画した「伝統の江戸東京野菜」で、砂町の話を皆さんにしてもらおうと、トークショーでお願いししている。



posted by 大竹道茂 at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京の農業と農業者達
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