2017年09月30日

「江戸東京野菜めぐり」バスツアーのコース確認に江戸への舟運と野菜産地の現状を見て回る


毎年11月に実施されているバスツアー「江戸東京野菜めぐり」のコースの検討に主催者の東京都農住都市支援センターから相談を受けた。

バスツアーは同センターの人気企画で、毎年参加者の希望も取り入れながら微調整をしているが、今回も担当の齋藤隆雄部長と高久大介主任に説明を求められたので、改めて中川口の周辺の説明に現地を案内した、

かつて、江戸では、新鮮野菜は江戸近郊の農村で栽培されていたが、市場には牛馬の他、重量野菜などは舟で運ばれてきて、日持ちのするさつま芋やかぼちゃのようなものも舟運で川越あたりから運ばれてきた。

京橋大根河岸に集まった亀戸ダイコンや、小松菜等がどのように運ばれてきたのかを検証するツアーだ。





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家康は、江戸に来て、まず取り組んだ都市づくりとして、下総の行徳から塩を江戸城に運ぶための運河を開削させている。

江戸幕府の政策は、江戸川は東遷、荒川は西遷へと流れを変える大事業を行っているが、
荒川は北区岩淵で隅田川と名を変えるが、流れを変えたことで大量の雨水が墨田川上流で度重なる洪水が発生していたことから、明治44年に、大量の水を別に流す、放水路の建設に取り組んでいる。





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中川口で小名木川が新川に繋がり、中川が左から流れ込んでいるところは歌川広重が描いている。

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ここ中川口は、船番所が設けられていた。
元々は、墨田川と小名木川が合流する万年橋の北岸に設置されていた川船番所で、明暦3年の大火後、寛文元年に移転された。

神田の青物市場や大根河岸青物市場に朝早くこの地を通過する船も検められた。
現在、江東区中川船番所資料館が建てられていて、3階にはジオラマで再現されている。





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旧小松川閘門は荒川放水路の開削により、中川や新川と荒川放水との水位の差は最大で3.1mに及ぶので、調整を図るため、昭和5年に完成したが、

野菜などの農産物をはじめとする舟運は、その後の時代、車や電車での輸送が主流になってきたことで、記念の建造物として保存されている。





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堰止められた川は、荒川によって分断されたが、どこに繋がっていたのか、目を凝らしてみると首都高速中央環状道路の下に、新川西の火の見櫓が見えた。

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中川からは、葛飾方面の農産物が運ばれてきていたが、新川からは塩や米などの他に、江戸川の小松菜などの農産物が運ばれてきた。

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東砂3丁目砂村ネギ畑
東京都特産砂村葱採種場は、昭和40年頃まであったと土地の人は覚えていた。
前に調べたが、設置されたのは大正期のようだ。



posted by 大竹道茂 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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