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今年の4月、ニッセイエブロ鰍フ石川茂樹顧問から、江戸東京野菜の話を聞かせてほしいと云うので伺い、
色々とお話をさせていただいたが、そのことは、「エンドウ豆3兄弟が行く!」のトピックスで「伝統野菜の復活は地方創生の種」を掲載していただいた。
その後、石川顧問は江戸東京野菜について情報収集をしていただいたようで、江戸東京野菜を連載したいとのお話をいただき、応援の仕方や、江戸東京野菜のマルシェができないかとのご相談を受けた。
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掲載当時はトピックスの扱いだったが、今回連載の計画があるようで、トップページのカテゴリに加えていただいた。
今後取材については、江戸東京野菜を生産する農家や、作物などについてご紹介していくことをお伝えしたので、そのうち実現するだろう。
江戸の名残を見つけた。
同社を出て新橋駅に向かう途中、ビルの谷間を横道に入ったところに空き地のようなスペースが見えた。
何か気になって入っていくと、こんなところに生えていたのが不思議なくらいの大木の切り株があった。
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そこには稲荷の額が、神社だったのが分かった。その壊れた石の二の鳥居の先にはご社殿があった。
参拝に来る人もいるようだった。
裏から境内に入ったことで、なんだかわからなかったが、一の鳥居の前に鹽鼉神社の旧字体
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元禄八年から東新宿に伊達家上屋敷があったが、大政奉還で屋敷は国に返したが、
安政三年に伊達藩の私邸内に祀った塩釜神社本社の分霊を迎えて祀ったものだが、この地は昭和5年までは仙台藩伊達家の所有だった。
関東大震災復興後、町民が憩える公園をつくろうという計画を伊達興宗伯が聞き約400坪の敷地を愛宕下町会に寄付したことから、東京で唯一の町立公園として開園したという。