先月、大阪に伺った折、野菜文化史研究センター代表の久保功先生が訪ねていただいたことは、当ブログで紹介した。
久しぶりの再会だったので、久保先生の話に聞き入ってしまったが、後日資料を送っていただいた。
いただいた資料は、久保先生が研究された長屋王木簡の成果が、専門誌や新聞等に掲載されたものだ。
天武天皇の孫・長屋王は、奈良時代初期に政治を担当していたが、藤原氏の陰謀で滅ぼされた。
長屋王の邸宅跡を奈良国立文化財研究所が発掘に取りかかり、1988年3万点にものぼる木簡が出土した。
「物部廣庭進黄瓜壱拾参顆」
(平城宮発掘調査出土木簡概報 1990年5月)
「多米麻呂進黄瓜壱拾肆顆」
(平城宮発掘調査出土木簡概報 1990年5月)
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木簡は、紙が貴重な古代、薄く削った木片に要件を墨書したもので、荷札などに用いられたもの。
そこに、黄瓜が記されていて、久保先生は、上記レプリカにあるように二条大路野菜木簡には、キュウリは今のように若採りせずに、タネが熟して色が黄色く変わり、大きくなってから食べていたと云う。
西多摩郡檜原村の鈴木留次郎さんは、檜原村湯久保に住む86歳のおばあちゃんから白岩瓜のタネもらった。
江戸東京野菜に申請しようと、調べた資料を送ってくれた。
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久保先生が京都新聞に連載した「京やさい発見伝」の、「古代は黄色く熟した実」に書いている。
武田の落人伝説が伝わる檜原村、甲斐國にも同じような食べ方をしている事例が、ジュニア野菜ソムリエがアップしている。
久保先生のお話しでは、漬物を示す最古の資料もあり、そこには「加須津毛苽、醤津毛苽、醤津名我(みょうが)、加須津 韓奈須比」の4品が記されていて、
粕漬のキュウリ、醤油漬のキュウリ、醬油漬のミョウガ、粕漬の茄子と読むと云う。
茄子と、胡瓜と、茗荷があったと云うので、江戸東京野菜では寺島ナス、馬込半白キュウリ、そして早稲田ミョウガがあることをお伝えしたが、中でも、早稲田ミョウガは名残の時期だから、井之口喜實夫さんの畑にはまだあるかもしれないので、残っていれば、醤油漬を送りますと安請け合いをしてしまった。
東京に戻って、井之口さんに経緯を伝えると、早稲田ミョウガの収穫は終わったばかりだが、そのようなことなら残っているかもと、探しだして奥様に醤油漬を作っていただいた。
久保先生に早速お送りすると、1300年以来の再現だと云って、電話をいただいた。
蓋を開けると、茗荷の香りがして、美味しくいただいたと喜んでいただいた。