2017年12月23日

平成29年度 江戸東京野菜推進委員会において、江戸東京野菜は新たに3品目が追加登録された。


江戸東京野菜とは、かつて栽培されていた地方栽培品種の野菜、いわゆる固定種が探し出されて、毎年追加登録されている。

今年は「第16回 江戸東京野菜推進委員会」が11月30日に、JA東京第1ビルで開催され、平成29年度江戸東京野菜品目追加登録について、協議が行われた。

今年、各JAから登録申請・要望が出た順に、JA東京島しょから「あめりか芋」、JA西東京から「白岩(しらや)うり、JA東京あおばから「雑司ヶ谷かぼちゃ」の資料が提出された。




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委員会は、島田幸雄委員長(JA東京中央会農政部長)の挨拶で始まり、西村修一副委員長も東京都農業振興課園芸緑化担当課長代理の立場から挨拶をされた。

その後、水口均江戸東京野菜担当から、今年、登録申請・要望が出た順に、JA東京島しょから「あめりか芋」、JA西東京から「白岩(しらや)うり、JA東京あおばから「雑司ヶ谷かぼちゃ」の資料が提出され、説明がなされた。

提出された品目は同委員会で慎重審議のうえ、追加登録についてすべて決議され、12月22日に開催された中央会理事会に報告し承認された。




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あめりか芋(七福)
品種特性

貯蔵性の高く、また貯蔵することで糖度が増してくる「密芋」タイプのサツマイモ。
外皮は薄い黄色で肉色はクリーム色。掘り起こしたばかり時の肉質は「粉質」、貯蔵後には「粘質」になる。

産地の歴史/風土

七福が日本に五わったのが明治33年(1900)。大正時代か昭和の初めには新島村で栽培が始まっていたと思われます。
新島にサツマイモが伝わったのは、享保20年(1735)といわれています。八代将軍徳川吉宗の時代に、甘藷先生として有名な青木昆陽が、新島へも種芋とともに栽培・貯蔵の方法をまとめた小冊子を送り、栽培を奨励したのがはじまりといわれています。

新島に残る史料からは、18世紀の後半にはサツマイモが新島の主要な食料となっていること。さらに島民の食を充たすだけでなく、島外へも出荷できる作物へと育っていった。

種子
自家採種
(株)上山種苗で苗を販売(鹿児島)

生産者
島内に多数





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菊座のカボチャ

品種特性

菊座のカボチャで早い時期に出荷していたことから黒皮かぼちゃと呼ばれるが、熟したものは褐色となる。

産地の歴史/風土

「雑司ケ谷黒皮南瓜」「雑司ケ谷南瓜」など「雑司ケ谷」の地名がついた品種です。これは東京黒皮南瓜のことと思われます。「昭和八年度全国種苗商案内」には「東京黒皮南瓜は近年富津南瓜の大量生産に圧せられ勢力を失っているが、原産地の適地に於いて栽培する東京黒皮は、やはり促成用種最高特徴を持っている、即ち東京黒皮は富津南瓜より約一週間は早く着顆する極早生にして、此の特徴には富津でも敵しがたく富津南瓜の栽培地では今尚東京黒皮南瓜を原種として用ひている」とあります。

種子

石田増之助「東京市場に於ける南瓜種類の推移見聞録」『種苗世界』第一号(昭和7年(1932))には、「(富津南瓜の)種子は毎年東京府下板橋、又長崎付近のものを買入て栽培した」とあることから「富津黒皮南瓜」の種子が購入可能

生産者数
現在、東京あおば管内で数名が栽培している。






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白岩ウリ(しらやうり)
品種特性

若いきゅうりは棘が大きく、色は半白で縦に白い線が入る。つるに実をつけたまま10日から15日ほど置くと実は黄色くなり、大きいものは長さ30p、太さ直径約8p位になる。また、雄花は沢山咲くが、雌花は少ないので収穫量は非常に少ない。

食感は、若いキュウリは皮が硬いが、水分が多く、自家製味噌と合わせて食べるとしやきしやきとして美味しい。また、黄色く色づいたウリは、皮をむき果肉の部分を薄くスライスして、冷やしてポン酢等好みの味付けをして食べると、パリパリとしてとても美味しく食べられる。

産地の歴史/風土

檜原村の最奥地の藤倉地域全体で夏野菜として栽培。収穫量が少ないこと等で人気度が低くなり、現在では数人の人たちが自家用野菜として栽培。特に藤倉の白岩(しらや)と云う地域(標高700m位の山間部にある小さな集落)で栽培されているウリである。

 
歴史的な史実

現在のところ書物等記録されているものは見つかっていない。
檜原村の湯久保という地域(白岩地域に似た山間地だが、標高500mから600mの間の傾斜地に家が点在する集落)に生活している峰岸奈津子さん(86歳)の話では、奈津子さんが幼少の頃から食べていたという。

奈津子さんは藤倉の猿江という地域で生まれ、「祖父の代から作られていて、若いキュウリ(今でいう一番食べごろ)を採ると、『まだ早い、もう少し大きくしてから採りなさい』と、よく叱られた」とも話す。また、藤倉に住む88歳の老人は「昔から白岩ウリは何処ででも作っていた、キュウリといえばこの種しかなかったので、種は各自繋いで、種が切れてしまえばそれぞれ融通しあった」と話す。

 白岩ウリは現在山梨県上野原市西原で作られている。
上野原市は旧北都留群であり、檜原村と隣り合っている。「おいねのつる芋」も都留から伝わったことから、白岩ウリも山梨から伝わったと思われる。武田信玄の娘「松姫」が山梨から八王子へ落ち延びた際には檜原村を通った記録が残っていることからも、檜原村と山梨の人と物資の交流は昔からあることが分かり、白岩ウリも明治時代よりさらに昔に伝わっている可能性がある。

 檜原村は江戸時代中期頃から山間地に生活する人々が多くなり、昭和50年頃までその生活は続いた。
生活は大変厳しい自給自足であった。収入源は燃料となる薪を作ったり炭を焼いたり、畑ではこんにやく栽培をしたり、養蚕をしたりして、その日の生活費を生み出していた。

そのため畑の作物等食糧品は非常に貴重だったので、白岩ウリなどは大きくして種が採取できる状態になってから食した。今後は栽培方法や食べ方等について研究を重ね、より良いウリづくりに努力したい。栽培者の輪を広げ、村の特産品として育てていきたい。

種子
自家採種

檜原村内数件

昨年までの、経過はここから

posted by 大竹道茂 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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