現役の頃、お世話になった西村進さんからメールをもらったのは昨年の8月末だった。
10数年ぶりだったが、「完全リタイヤして畑作業などのんびりした日々を送っています。」とあった。
何でも千葉県生涯大学校園芸科を卒業した有志で、「東葛園芸クラブ」という任意の同好会活動をしていて、現役時代のネットワークを生かして、講師を選定していた。
同クラブでは、60代〜70代 園芸に興味を持つ約50数名が、月1回座学を中心に、園芸に関する勉強会を開催している。
千葉県と云っても松戸は、日暮里から快速電車で17分だから近い。
皆さん西村さんと同じように、東京勤めだった方も多く、千葉の伝統野菜についてはご存じない方が多いようで、
「江戸東京野菜の紹介、栽培取組などをご教授願えたら・・・・」ともあった。
当初10月23日(月)、10時からと云うことで準備を進めていたが、生憎台風が来たので、延期のメールが入った。
同クラブでは、その先の日程はすでに決まっていたから、結局翌年の1月15日になったのだ。
西村さんも、頼んで見たけれど・・・と思ったのか、それとも気を使っていただいたのか、9月30日、江戸東京野菜コンシェルジュ協会が新宿のアグリパークで実施した、「はじめての江戸東京野菜講座」に、ご参加いただいた。
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「江戸東京野菜とは」とか、「種が採れる野菜で、野菜の命が今日まで伝わっている」「江戸東京野菜には物語がある」などの話をした後、
千葉県の、伝統野菜を紹介した。
一つめが大栄大蔵ダイコンだ
大栄大蔵ダイコンは、昭和41年(1966)千葉の植松源司種苗店が育成したダイコンだが、
昭和27年登録された「大蔵」ダイコンは、世田谷の石井泰次郎が育成した都内産耐バイラス性詰りだいこんとして、広く普及した。
しかし、作土によってやや短くなることと、播種適期幅がややせまいことから、育成者の出身地、干葉県大栄町において、「大蔵」の分離系統より、「大蔵」より良太りとなる強健良質種をめざして、選抜を重ねた。
大栄大蔵の特長は、根部純白度が強く、根質すこぶるち密でみずみずしく食味佳良なことである。
強健性と根質が認められて、都内はもとより関東各地で好評を受けたが、
更に特性が活かされて、長崎県西海地方では切干用適品種として「ゆで干しダイコン」として特産地品種となっている。
もう一つはサツマイモだ
サツマイモは、甘藷先生と云われた青木昆陽が普及した。
江戸中期の蘭学者で、町奉行大岡越前守忠相に知遇を得、幕府書物方に登用されている。
昆陽は、人々を飢えから救う作物としてサツマイモに注目し、『蕃薯考(ばんしょこう)』を著した。
享保の大飢饉(1733〜34)の対策に苦慮していた八代将軍・徳川吉宗は、昆陽にサツマイモの試作栽培を命じ、江戸小石川の養生園(現小石川植物園)を始め、天領であった下総国馬加村(現千葉市花見川区幕張町)、上総国不動堂村(現山武郡九十九里町)で行われたが、
中でも幕張では種芋17個から2石7斗6升の収穫を得ることができた。その後、天明、天保と続く大飢饉の時にもサツマイモによって多くの人が救われた。
寛永の頃、薩摩の浪人夫婦が川越城に行く途中、柳瀬村南永井で日が暮れて困っていた時、吉田弥右衛門が自宅に泊め、世間話の中で「サツマイモをつくれば餓死する人がいなくなる」との話を聞いた。
そこで弥右衛門は、寛延四年(1751)に、息子の弥左衛門をサツマイモの買い付けに上総国志井津村(現千葉県市原市)に行かせ、南永井村(現所沢市)にさつまいもの種芋をもたらした。
江戸で栽培された野菜は鮮度を重視するものが多いが、サツマイモや、カボチャは重量野菜、川越(川越藩領)から新河岸川を使う舟運で、大量のサツマイモが3日〜4日で浅草や神田市場に届けられたというから、日持ちするものは川越藩領からでもよかった。
江戸で手軽な焼き芋が流行ったこととで「川越いも」は有名になったが、元は、千葉のサツマイモだった。
帰宅後、西村さんからメールが届いた。
本日はご多忙のところ、遠くまでおいでいただき
ありがとうございました。
期待どおりのお話で、終了後、わたしのもとに駆け寄った仲間からも
「いいお話を聞かせてもらった」
「もっと聞きたいね」
「また、お呼びしてよ」
などと評判で、お陰様でわたしのハナも高くなりました。
野菜栽培をしていない者にとっても興味深いお話で、
消費する立場からもいい勉強になったようです。
「今度は、ぜひ、種も分けてほしいね」との要望もありました。
ぜひ、また、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
尚
この度は、都市農地活用支援センターが実施している
"「農」の機能発揮支援アドバイザー" として派遣されました、
同制度をご活用ください。