品川区立品川歴史館では、企画展として戸越と小山「山路治郎兵衛のタケノコ栽培と足跡」をやっていると云うので、出かけた。
武蔵小山商店街連合会が主催している「ムサコたけのこ祭り」は毎年この季節に開催されるが、
これは江戸時代に鉄砲洲で幕府御用の回漕業を営んでいた山路治郎兵衛勝孝が、薩摩藩邸で見事な孟宗竹の竹林を見て、種竹を薩摩藩から取り寄せ、戸越に設けた別邸の敷地で筍栽培を始めたことを起源としている。
孟宗竹は、薩摩藩が琉球経由で中国から輸入したもので、本来「江南竹」と呼ばれ、鹿児島城下の島津邸仙巌園で栽培されているが、
天保八年(1838)に仙巌別館に建立した 仙巌別館江南竹記には、「俗に孟宗竹と呼ぶ」とあり、日本で孟宗竹の名がついた
今回の企画のベースになっているのが、山路家に残る資料によるもので、
チラシによると「山路治郎兵衛勝孝が戸越に植えた孟宗竹は、近隣の小山・中延・目黒に広がりを見せ、筍の−大産地になりました。
また、山路勝孝の子孫勝知は、明治時代に戸越村・上蛇窪村・下蛇窪村の戸長をつとめたほか、現・京陽小学校の設立や、戸越八幡神社の護持、関東大震災発生時の平塚村への救済など数多くの事蹟を残しました。
そこで本展では、「ムサコたけのこ祭り」の開催にあわせ、勝孝と勝知の足跡を辿りながら江戸時代から大正時代の戸越・小山地域を紹介します。」 とある。
2011年に山路家に伺った折に、安清先生に見せていただいた、
「孟宗竹(一名江南竹)栽培由来書」が展示してあった。
栽培由来書の横に、同館が要約したものが展示してあったが
要約では「種竹を取り寄せ」とあるが、由来書には、「孟宗竹(本名漢土産江南地区)の種竹数竿を当地に移植し」とあり、「数竿」と具体的に記されている。
種竹とは、2、3年物の竿で地下茎を付けたものを移植している。
企画展は、山路治郎兵衛勝孝から数えて4代目の山路治郎兵衛勝知の地域貢献を紹介している。
勝知が生まれた翌月の安政元年12月に発生した火災で多くの史料を焼失してしまったそうで、勝知の時代の史料、戸越、上蛇窪、下蛇窪3ケ村の戸長役場旧蔵史料が多い。
「品川の農業」の資料を同館でいただいた。
孟宗竹タケノコの他、品川カブ、品川ネギ、居木橋カボチャ、
等が紹介されていた。