2018年04月15日

品川歴史館の帰りは大森貝塚から鈴ヶ森を回って立会川へ


品川歴史館からすぐのところに品川区立大森貝塚遺跡庭園があると云うので足を延ばして行ってみた。

明治10年(1877年)、アメリカの動物学者 エドワード・シルベスター・モースが、横浜から新橋に向かう汽車の車窓左側から貝殻の層を発見した。
モースの貝塚発見のレポートには所在地が大森村と記述されていたことから「大森貝塚」(現大田区)とされたが、発掘地は「荏原郡大井町」(現品川区)だった。

現在、大田区にも大森貝墟碑が建立されていて、大森(現山王)から品川区大井にかけての線路沿いの崖地に貝塚が広がっている。




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日本で初めて貝塚の学術調査が行われたのは縄文時代後期から晩期の大森貝塚遺跡で、大森から、大井にまたがる一帯を「日本考古学発祥の地」と呼んでいる。

品川区では、大森貝塚遺跡を庭園として整備している。





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遺跡庭園の中央部が、地層の回廊が出来ている。

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縄文土器と地層をイメージした回廊。





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モース博士生誕の地である、アメリカ合衆国メイン州ポートランド市と品川区が姉妹都市提携を記念して碑を建立している。

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日本の鉄道は明治5年(1872)に、新橋 - 横浜間が開業していて、貝塚の脇を線路が通っているところを見ると、線路の敷設工事で貝塚が削られあらわになっていた事から、
これが、モースの発見に繋がった。




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JR京浜東北線がすぐ脇を通過していった。

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今の電車の速度では、大森貝塚の碑は、近すぎて見届けられないが、昔の蒸気機関車の速度では、貝塚は良く見えたのだろう。
品川では1929年(昭和4)に「大森貝塚碑」が立てられたが、 大田では貝墟碑が1930年(昭和5)に建てられている。

「 The Site of the Omori Shell Mounds discovered by Professor Edward S.Morse 」

かつてこの辺りは海岸線であった。
貝塚が露出していた場所は、土手が崩れないように保護されていた。





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貝塚から第一京浜国道に向かってJR東海道線の下をくぐる道が作られていた。
桐畑地下道がそれで、1995年に開通した歩行者・自転車専用道路で、線路下からも貝塚が出てきたようで、
発掘調査で出土した貝殻を使い、貝塚の断面を再現した貝塚復元模型が壁面にあった。





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貝塚から東海道線をくぐってしばらく歩くと第一京浜国道で、国道を渡った右側に、鈴ヶ森遺跡がある。

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慶安4年(1651)に設置されたお仕置き場で、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七などが、処刑された。

冥福を祈ってきた。

立会川に架かる浜川橋は、又の名を「涙橋」、
鈴ヶ森刑場で処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきた。
その時、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたという。

鈴ヶ森から立会川駅に向かい、坂本龍馬ゆかりの地を歩いた。


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立会川で下車して、品川歴史館、大森貝塚遺跡 鈴ヶ森遺跡 坂本龍馬ゆかりの地と回ってきたが、2時間ほどの行程であった。
posted by 大竹道茂 at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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