目黒区立めぐろ歴史資料館が開館10周年特別展「目黒のタケノコ〜竹がもたらすもの〜」が開かれているが、3月に横山昭一学芸員が訪ねてこられ、講演を依頼された。
4月28日には横山学芸員の展示品解説があると云うので伺い、話がだぶらないようにと思って、聞きに来ている。
今回の講演テーマは、「目黒のタケノコ物語」としたが、
昨年、ブログに子規のことを書いたので、それをベースにパワーポイントを作った。
鹿児島にも行っているので、それらの写真も活用している。
目黒の筍は、江戸の頃から、目黒不動尊門前の料理屋で季節になると名物として筍飯を食べさせたことから「目黒の筍」は世に知られることとなった。
正岡子規の
「筍や 目黒の美人 あるやなし」 と
高浜虚子の
「目黒なる 筍飯も 昔かな」 を紹介し、
皆さんに句の背景を考えてもらうことにした。
会場には、40数名の方々が来て頂いた。
上の画像をタップする
同館の坂和雄館長の挨拶で始まり、
横山さんが私を講師に選んだ経緯を紹介された。
筍を食べると色が白くなると云う説があることから、これまで
目黒には美人が多いのか、と紹介していたが、
事実は興味深いものだった。
また、高浜虚子の「目黒なる 筍飯も 昔かな」、
は、字面だけで理解していた。
この度の講演で、子規の句を調べてみた。
明治27年3月の思い出を、子規は書いていた。
2歳上の先輩古島一雄(古洲)に誘われて、大宮公園に出掛けたとある。根岸の子規庵からそんなに遠くはない、桜はまだ咲かず、引き返して目黒の牡丹亭とかいう店で、筍飯を注文する。
注文した筍飯を持ってきて給仕してくれたのは17〜8才の娘だった。
あふるるばかりの愛嬌のある顔に、しかもおぼこな処があって 甚だ人をゆかしがらせて 独り胸を躍らしていた。とある。
「うたた寝に 春の夜浅し 牡丹亭」の句を読んでいる。
暫くの間雑談にふけっていたが品川に回って帰ることになり、その娘が、送っていくと小提灯を持って道案内をしてくれる。
藪のある寂しいところで、ここから田圃道をまっすぐに行くのだと教えられて、小提灯を渡される、
その時娘は、ちょっと待ってと云って、暗闇の中で小石を拾って来て、小提灯の中に落として、「さようならご機嫌よろしう。」と云って今来た道を闇の中に消えた。
小石を小提灯の中に落としたのは、おまじないではない。この先、私の代わりネ、とでも云ってくれたようにも思える。
この句が何年に詠まれたのか確認したくて、一般財団法人子規庵保存会の田浦徹代表理事に電話でお聞きした。
明治35年5月、子規は20歳頃から脊椎カリエスにかかっていたから病床で苦悶しているが、あれから今日まで忘れる事の出来ないのはこの時のことだと、古島に宛てた手紙に書いていて、
「筍や 目黒の美人 あるやなし」と詠んだものだと云う。
あの子はもう25〜6才、嫁に行ったか、それとも店にいるのか、気になる思いをさり気なく古島に伝えたかったのかもしれない。
子規は、4カ月後の9月19日、34歳11カ月で亡くなられた。
田浦代表理事は「生涯にわたって女性の影も無いと言われた子規の数少ない女性のエピソードでもある」という。
この書簡だが、「昨年の子規生誕150年の折に個人のご所有者から当会にご寄贈があり、今年9月の子規庵糸瓜忌特別展示にて実物展示をする予定」だと云う。
昭和26年7月23日、子規の50回忌に、87歳の古島一雄が、目黒で筍飯を食べた時の話しをする。
「目黒の茶店にいた可愛らしい女中がいて、子規はその小娘が気に入ったらしい。別れる時、その小提灯を子規が貰った。奴はそれが嬉しかったようだ。」
この句の経緯については、古島一雄の子規談があります。
全集にも載っているのですが、ネットの引用記事もありましたのでご参考までに。と、田浦代表理事がご親切にメールをくれた。
これを読んで、解かったことがある。
筍飯を食べた店は、牡丹亭だと言う。角伊勢、大国家、内田屋などが有名で、牡丹亭は廃業したのかと思っていたが、古島は、店の前に咲きかけた牡丹があったという。牡丹のある店と詠んだようだ。
関東大震災以降、被災者の住宅用地などなに開発が進み、目黒や品川の竹林は世田谷や北多摩へと移っていった。
昭和29年というと私が4年生の時だが、筍飯を食べさせる店は無くなっていた。
50回忌、子規との思い出も昔になってしまったとでも言っているのか・・・
目黒なる 筍飯も 昔かな 虚子
と詠んでいる。
追録
T時半から3時半まで10分の休憩を挟んでお話しさせていただいたが、目黒区立油面小学校の同級生
股野道夫君、松本大五君、太田徹君、佐藤育さん、そして杉本勝輔君と前列の方で聞いてくれた。
2012年に目黒区役所で行ったときも皆さんが来てくれた。
皆さんありがとうございました。
母校、油面小学校は、関東大震災の翌年大正13年に出来た。
校歌は今も覚えているが、時代を反映していた。
「ひろがる都、街も新た、目黒は開け、日に日に進む・・・、」
と都市開発が進む様子か、今も歌われているようだが、
理解している 先生は少ないのではないか。
また、目黒の杉村昇一さんも来ていただいた。