2018年06月17日

根岸の里に子規庵を訪ねたが、糸瓜が蔓を伸ばしていた。


目黒と筍の句に、正岡子規と、高浜虚子の句があり、目黒区立めぐろ歴史資料館でお話をしたことは、ブログで報告した。

ブログの中では、色々と教えていただいた一般財団法人子規庵保存会のHPにリンクさせてあったが、目黒の筍で、子規の人柄の一端を知ったことから、一度は行ってみたいと思っていた。

丁度、押上まで行く用事があったので、少し早く出て、日暮里で下車した。

子規の句を調べた過程で、一般財団法人子規庵保存会の田浦徹代表理事にいろいろと教えていただいたので、お礼を申し上げたが、ブログを読んでいただいたようで、盛会だったようですネ!。と云っていただいた。




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子規は、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内 でベースボールに熱中していたが、この頃、吐血して、結核を発症したようだ。

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子規庵は、加賀藩前田家の下屋敷の侍長屋だったもので、二軒長屋の一軒の借家に明治27年に移り住んでいる。
私が子どもの頃住んでいた目黒の家も、昔ながらのこんな雰囲気だったから、子規庵は、ほっとした落ち着きを感じた。

黒板塀も、ブロックに変わったが東京都指定史跡「子規庵」とあった。





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      病む我を 写す写真に床のへの
           瓶にさしたる桜写りぬ (明治33年)

明治33年4月5日に撮影された、病牀に横たわる写真の裏に子規は、写真に写る情景を書いている。

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子規 終焉の間には、子規の座机が置かれていたが、子規は脊椎カリエスで左足は曲がったまま伸びなくなっていたので、立膝を入れるようにくりぬいてあり、田浦代表理事に言われて実際に試してみた。






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かつて荒川区の谷井千絵観光振興課長が、三河島菜は荒川区の観光資源だとして、日暮里駅前で日暮里マルシェを開催し、都立農産高校の生徒が栽培した三河島菜を販売した。

課長は、松山市立子規記念博物館まで行って、色々と調べてこられたことは、当ブログで紹介している。

根岸あたりに畑があったころ、小松菜など、青菜の句を詠っているようで調べて見ようと思っている。





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庭では、昔ながらヘチマが蔓を伸ばしていて、

絶筆の糸瓜(へちま)三句の碑には

糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな 子規
痰一斗 糸瓜の水も 間に合はが  子規
おとといの へちまの水も 取らざりき  子規

上の画像をタツプする

床の間には、法隆寺鏡池のほとりに建つ子規自筆の句碑の拓本、
「法隆寺の茶店に憩ひて 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 」の軸が。


追録

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子規庵の南側に、
噺家の林家三平「ねぎし三平堂」の立派なお屋敷かあった。




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近くには豆富料理の老舗「笹乃雪」がある。


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水無月や 根岸涼しき 笹の雪   子規(明治二十六年)
(みなづきや ねぎしすずしき ささのゆき)

蕣に 朝商ひす 笹の雪    子規(明治三十年)
(あさがおに あさあきなひす ささのゆき)

「子規の里」というメニューもあり、その内来ようと思っている。

入谷の朝顔まつりは、今年は7月6〜7日とある。




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善性寺門前の説明板には

善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(1487)の開創と伝える。寛文四年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
 宝永年間(1704〜1711)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
 善性寺の向い、芋坂下には文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
 
 芋坂も団子も月のゆかりかな  子規

羽二重団子は、現在ビルが建設中だった。

江戸時代創業の、笹乃雪、羽二重団子ともに、東都のれん会の会員だ。



posted by 大竹道茂 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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