特別展「目黒のタケノコ〜竹がもたらすもの〜」を開催された。
講演では「筍」と「目黒」の句として子規の句を紹介したが
一般財団の子規庵保存会・田浦徹代表理事に色々と教えて頂いた。
講演後、田浦代表理事にお礼を申し上げに子規庵を訪ねている。
子規の句「筍や 目黒の美人 あるやなし」の真筆書簡が、
2017年の子規生誕150年に個人の所有者からご寄贈頂いたので、
9月の子規庵糸瓜忌に特別展示として実物展示をすると伺っていた。
糸瓜が実っていた。
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庭の黒板に「植木屋二人来て病室の前に高き棚を作る。
日おさへの役目は糸瓜殿 夕顔殿に頼むつもり。六月十二日」
『墨汁一滴』より
木造りのプランターで5本の糸瓜が栽培いされていた。
子規が寝ているところからよく見える場所には鶏頭も咲いていた。
室内には特別展示のショーケースが置かれ撮影禁止になっていた。
ショーケースの一つにお目当て、
所在不明だった幻の書簡が展示してあった。
明治35年5月4日付の先輩古島一雄宛の「子規書簡真筆」で、
116年目に初公開されたもの。
書簡には「今日も 今日と非常に弱って・・・」と、
体調が悪くなっていく不安が書き出しで、五月四日子規、古嶋兄
と締めた後に大きく、「筍や 目黒の美人 あるやなし」とあり、
目黒不動尊門前の筍飯屋で会った女性への思いが伝わってくる。
子規は、4カ月後の9月19日に34歳で亡くなられたわけで、
良いものを見せてもらった。
上の画像をタツプすると頂いた「子規遺墨遺品展」のご案内
サンケイフォトで紹介されている

庭の西側にある黒板塀は加賀屋敷(加賀藩)だと云う。
上の画像をタップする。
田浦代表理事、ご案内ありがとうございました。
追録
子規庵の近くに、協力店の笹乃雪があり、ポスターが張られていた。
上野の宮様に賜った「笹乃雪」の看板は現在も店内に掲げてある。
上野の宮様とは、
東叡山寛永寺貫首の公辯法親王(第111代 後西天皇の第6皇子)で、
元禄4年(1691年)五代将軍綱吉の時代に京都より上野に移られた。
玄関には江戸時代から明治初期に創業の東都のれん会の額。
元禄4年創業の同店は327年の歴史がある。

「笹乃雪」 の名の起り
『元禄年間、初代玉屋忠兵衛が上野の宮様のお供をして京都より江戸に来て、初めて絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を開いたのが当店の始まりです。
宮様は当店の豆富を好まれ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞賛され、「笹乃雪」と名付けられ、それを屋号といたしました。
当時の製法そのままに、にがりを使用した昔ながらの豆富の味をご賞味ください。」とある。
小付
笹乃雪 冷奴
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生盛膾は、中央の白酢に周りの野菜などを混ぜて白和えにしていただく。
小付は、蕪の寒天に、菊花と海老が乗っていた
冷奴は、絹ごしで滑らかだが、しっかりした味わい。
雲水
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あんかけ豆富(写真下) 同じあんかけ豆富が二碗出てきた。
同じものですかと、聞くと同じものだと云う。
説明によると「上野の宮様がご来店なりました折、大変美味しいと仰せになり、今後二碗ずつ持って来る様にと、
お言葉を頂き、それ以後、お客様に二碗ずつお出し致すのが、当店の慣わしになっております。」とあった。
胡麻豆富(写真上左)と、雲水(写真上右)
炊き合わせ (高野豆富・湯波)
季節のl品
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お庭に面したテーブルで、
揚げ物(下左)は、生揚げと海老真薯にシシトウ
炊き合わせ(高野豆富・湯波)写真下右
季節の逸品は茶わん蒸しだったが写真を撮るのを忘れた。
豆富アイスクリーム
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子規庵で土産に買った手拭い、笹の雪に於いてあった焼き菓子。
子規庵でお目当ての、子規の真筆書簡「目黒の美人の句」と対面、
そして、元禄の頃からの豆富料理と、充実していた。