2018年09月19日

砂村の富士信仰の象徴「砂町の富士塚」を訪ねた。


江東区立第五砂町小学校で砂村一本ネギの復活栽培が始まって9年目になるが、砂町の地はかつて砂村と云われ、江戸における農業の先進地でもあった。

この地は、江戸名所百景の他、江戸名所図会では「富岡元八幡宮」の説明に「洲崎弁天より十八丁あまり東の海浜にあり、深川八幡宮の旧地なりといへり」とある。

遠浅の砂村の地を、砂村新左衛門が開拓し、砂村新田を拓いていった。
このことは、元八幡の冨賀岡八幡宮の境内に顕彰碑が建立されていて、当ブログで紹介している。

ここに、富士塚があるのを知らなかったが、先日五砂小に伺った折に、足を延ばして寄ってみた。




5-1.JPG

冨賀岡八幡宮の御社殿の裏に回るとそこに、富士塚があった。

江東区教育委員会が建てた説明によると、南東方向から見た、
昭和30年当時の写真も掲示されていた。
南東と云うと、現在の元八幡交番前の方から撮ったようだ。

上の画像をタツプする
説明によると、江戸時代末期の天保四年(1833)までに、
冨士講の一つ山吉講によってつくられた富士塚とある。







6-1.JPG

かつてこの富士塚は30メートルほど北にあった土山だったようだが、昭和8年(1933)の水害で、形が崩れてしまったことから、表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和37年(1962)に現在の地に移築したと云う。

上の画像をタップする

管理が行き届かないのか、富士塚には登らないようにとの宮司の注意書きがイチョウの木に貼ってあったので、

登らずに富士塚を、一回りしてみた。

江古田の浅間神社のように、山開きの日に登らせることはできないものかと、ふと思った。


この後、第五砂町小学校の砂村一本ネギのタネ蒔きの授業に向かった。
posted by 大竹道茂 at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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