靖国神社の標本木を見に行ったが、まだ蕾は固かった。
その後いつ5輪以上咲くかが、ニュースとしてテレビの話題になっていたが、このところ目黒の桜が話題になっている。
目黒の桜は、目黒川に掛かる桜を、水上からと両岸からみる桜で、そんな目黒川を歩いてみた。
目黒川の河口は品川で、品川では、毎年品川神社で品川カブの品評会が行われていることは、紹介している。
近くには、三代将軍徳川家光に可愛がられた、沢庵禅寺の東海寺があり、練馬大根は、米糠を使った糠漬にぴったりで、干し大根として普及した。
東海寺は品川歴史館の資料、万治三年(1660)の境内図によると広大で、品川神社も神仏混合で境内に入っていた。
現在は、間近に超高層が建ち、目黒川の畔と大山地区に沢庵和尚などが眠る墓地があるようだ。
安政四年(1857)の高輪邉絵図には、御殿山が桜の名所になっている。
御殿山通りの桜並木から、東京マリオットホテルの桜。
ペリー来訪により、幕府は大慌てで御殿山を削ってその土でお台場を構築した。
「泰平(太平)の ねむりをさます上喜撰(蒸気船)たった四杯(はい)て夜もねむれず」との狂歌がある。
上喜撰は良いお茶のこと。
廣重の「江戸名所百景 品川御殿やま」には、削られた御殿山が描かれている。
御殿山から大崎に下ってくると、そこは居木橋で、かつてはこの辺りで縮緬の居留木橋カボチャが栽培されていた。
目黒川遊歩道から、JR大崎駅まで歩いた。
大崎駅西口から近い所に居木神社があるが、同神社には居留木橋カボチャの説明板がある。
現在、品川区清掃事務所があるが、かつて、トラックで運んできた家庭等の糞尿を船に乗せて、東京湾の沖合へ捨てに行っていたが、その船着き場が、居木橋の下流側にあったのを記憶している。
当時は桜を見る観光船が通るとは、思わなかった。
大崎からJRで目黒で下車、権之助坂より急な行人坂を下った。
目黒は子供の頃、住んでいたから小学校の旧友が住んでいる。
途中の大円寺には、八百屋お七の謂れが、
八百屋お七は、両親と共に非難した寺で、小姓の吉三に一目ぼれ・・・・。という話。
火事になれば、また吉三に会えるだろうと、自宅に放火する・・・。
歌川広重の描いた太鼓橋よりは川幅も広がって、そこからの桜の景観は美しい。
また5分咲きと云うところだろうか
目黒川は、目黒から品川にかけては、子供の頃から下水道が流れ込む川だった。
それが、オリンピック以降、世田谷辺りが都市化されていったことから、上流からも家庭の雑排水が流れてくるようになり、悪臭を放っていた。
世田谷の北沢川を遡る、かつて北沢上水として、農業の灌漑用に使われていた。
目黒川の支流は用水として世田谷区立緑丘中学と日大櫻が丘高校の間を抜けていた。
北沢川は下水道幹線で暗渠化されていて、緑道が整備され、代田から池尻にかけては、下水の高度処理水を利用した水のせせらぎが甦っている。
桜上水には、浦野昌一さんが今でも野菜を作っている。
浦野さんは、毎年東京都農業祭に顔を出され、江戸東京野菜コーナーに、訪ねてくれている。
昔話を聞こうと伺ったが、この日はお会いできなかった。
上の画像をタツプすると読みづらい碑文
四谷軒牧場由来ノ記
四谷軒牧場ハ、明治初年越前國・福井県出身
佐々倉伝吾と弟仁太郎が東京四谷麹町ニ開イタ、
牧場兼牛乳店「牛乳搾取所」ヲ以テ ソノ始メトスル
乳牛ヲ飼育シ新鮮ナル牛乳オ供スル コノ経営
ハ ヤガテ都市化ノ波トノ闘ノ命運ヲ 既二持ツ
コトニ ナッタ
カクテ二代目弥之吉ハ杉並井草二新天地ヲ
求メ 初代伝吾、甥清二・良治ハ共二協力
シテ 大正初期代々木初台ニテコノ経営ヲ継イダ
良治ハ艱難辛苦斯業ノ発展二努メルトトモ二
斯業ヲ通シテ社会二役立ツコトヲ思イ
昭和五年勇躍牧場ヲコノ地二移転シタ
コノ世田谷ノ四谷軒牧場ハ一時ハ面積一三〇〇〇
平方米 飼育スル乳牛一二〇頭ヲ擁シ併セテ
学術研究 畜産技術教育ノ場トシテ利用サレ
急速ナ都市化ノ中デ自然ヲ求メル人ビトノ
憩ノ場トシテ朝夕親シマレテキタ シカシ大都市
二残ル最後ノ牧場四谷軒牧場モ時ノ流レニ
抗シエズ 開牧ノ願イヲ他二求メ昭和六十年
一月二十日惜シマレツツソノ幕ヲ閉ジタ
四谷軒牧場主 三代目 佐々倉俊雄
昭和六十年八月七日建立
百十年続いた四谷軒牧場(赤堤3-31-1)
「明治初年、福井出身の佐々倉伝吾・仁太郎兄弟が麹町三丁目で、四谷軒牛乳搾取所を開いた。
当時のイラストを見る、牛舎に三頭、運動場に八頭の乳牛が遊び、運動場に八頭の乳牛が遊び、牛舎の屋根には「うしのちち・四谷軒」の旗が風になびいている。店の前には人力車が二台停まり、お客が店に一人、往来には三人も立っていて、繁盛していた様子がわかる。」と、
「江戸・東京 暮らしを支えた動物たち」に記されている。
現在、23区内に残る牧場は、練馬の小泉牧場だけになってしまった。