3月初めに、番組制作会社の川尻健一さんから電話をもらった。江戸東京野菜の話を聞きたいという。
よく番組のディレクターと称して電話が来るが、自分の要件が済むとそれだけで、番組内で間違った理解をして放送する場合もあり、無責任な対応が多いので、電話での取材はお断りしているが、当ブログをよく見ているので、お会いして話を聞きたいという。
そこまで言われると、それならと昭島まで来ていただいた。
10時に喫茶店でお会いしたが、川尻さんと同社のディレター佐野岳士さんの2人で見えたが、「東京の野菜」をテーマにした番組を検討していると云っていてたが、私が書いたものや、江戸東京野菜関係の資料などをたくさん持っていて、本気度が伝わってきた。
江戸東京野菜についての質問に答えていたが、復活栽培については、亀戸ダイコンの農業説明板の設置にともない20年前から始まった福分け祭りの開催。
品川カブによる品川のまち興しの取り組みに、東向島地区に広がった寺島ナス、家康・秀忠・家光が愛した美濃の真桑瓜、青茎三河島菜は荒川区の観光資源にも位置付けられた。
聞き上手だから、2時間以上話し込んでしまった。
そんな中で、早稲田みょうが捜索隊の話は面白かったようで、隊員の1人伊藤俊文さんが作った「早稲田界隈茗荷発見場所」をお見せしたら、本当に早稲田の地にミョウガが生えているのか案内してくれという。
それならと、かつて捜索隊が早稲田大学周辺を歩き回ったところを案内することになった。
早稲田駅の改札で待ち合わせて、最初に案内したのが、穴八幡宮に建立した農業説明板。
早稲田大學構内の古墳「冨塚跡」には、ドクダミとともにミョウガ(写真右上下)が生えていた。
次に、小野梓記念館の非常口「モニュメント早稲田茗荷」に向かった。
当時、副総長だった堀口健治先生が、早稲田にあるミョウガの記念碑として教えてくれたものだ。
途中、早稲田中学のミョウガの栽培地(写真左下)は、同校の要請で井之口喜實夫さんが定植したものだが道路沿いで管理が十分ではなく一部は枯れていた。
また、校舎をバックにした古い民家は取り壊されて、お寺の敷地になっていて、ミョウガはなくなっていた。
上の画像をタップする
農樂塾の学生たちは苗代を用意、田植えの準備をしていた。
上の画像をタップする
水稲荷神社の裏には9年前(2010)はミョウガがたくさん生えていたが、わずかになっていた。
西早稲田にあるお寺、亮朝院脇の細い私道には、9年前にも生えていたが、今は栽培しているようだ。
早稲田大学甘泉寮(写真左)の奥、細い市道の茗荷の自生地(写真右上)、
新宿区立戸塚第一幼稚園の露地(写真右下)にも生えていた。
早稲田大学体育館に近い、三品食堂で昼食。
当時、早稲田大学周辺商店連合会の会長をされていた北上昌夫さんがいらした。
三品食堂の三品は、牛めし、トンカツ、カレーで、
先日、Nエブリーだったか、テレビで同店を紹介していて、
剣道部の学生たちが食べて優勝したと報じていた。
その、牛めしとカツカレーのミックスをいただいたが、
お腹が減っていたので写真を撮る前に、一口食べてしまった。
店の前の大学の敷地には、早稲田ミョウガが植えられ。
北上さんが、栽培管理しているそうで、
「植木屋さんが入ると雑草と一緒に抜かれてしまうので、
簡単な看板も立てています。」
ここも、大学の要請で井之口さんが定植したもの
鶴巻町の天祖神社には、説明板に「茗荷畑の神明宮と言われて住民から崇敬されていました。」とある。
天祖神社には、井ノ口さんが獲れたてのミョウガを奉納している。
ここも井之口さんが、氏子の町会からの要請で定植したもの
山吹町のあたりで、江戸から15代続くお宅を探したが、わからず改めて探すことで、皆さんとはここで別れた。
江戸川橋から茗荷谷に1人で向かったが、しばらく歩いて鼠坂を登った。
結構起伏のある地形を歩いて拓殖大学の東門脇に出た。
そこには同大が設置したミョウガ畑があり、地元町会の皆さんが栽培管理をしていると聞いた。
文京区の説明板には「御府内備考」に「茗荷谷は七間屋敷の北の谷なり、むかしこの所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり、今もそのなごりのめうが畠すこしのこれり、此辺にはことに広く、その唱へも名高き所なり」とある。
文京区の「茗荷坂」の説明板と、旧町名案内においても、「御府内備考」の一説が紹介されていた。
文京区観光協会にお聞きしたら昭和47年に建立したという。
東西線早稲田駅から丸の内線茗荷谷駅まで3時間の行程だった。
早稲田ミョウガの捜索ではお世話になった石原光訓さんは高知に、
松井健太郎さんは高崎に、資料を作った伊藤さんとも連絡が取れた。