番組制作会社「東京ビデオセンター」の川尻健一さんからの電話で、東京の野菜について番組を作りたいというので、お会いして江戸東京野菜の物語をお話したが、同社の佐野岳士ディレクターから早稲田ミョウガの発見の経過が面白いからと、早稲田界隈を案内した。
佐野さんの頭の中では、番組のストーリーが決まったようで、6月19日(水)に9時半までに「モニュメント早稲田茗荷」の前で待ち合わせをした。
「モニュメント早稲田茗荷」の前で、2010年に結成した「早稲田みょうが捜索隊」の隊長石原光訓さんと、生産者の井之口喜實夫さんと待ち合わせていた。」
2010年、早稲田大学の副総長をされていた堀口健治先生に教えていただいたモニュメントだ。
佐野ディレクターの質問に答える形で、モニュメントに書かれている一説を読み上げた。
早稲田大学の西門から入った構内に富塚跡の碑があるが、2010年当時、そこにはミョウガが群生していたので、そこに案内した。
2010年の写真に比べると、現在はドクダミが繁茂していて、ミョウカが少なくなっていた。
日当たりの良いところは、ドクダミの地下茎がミョウガの地下茎を覆いつくしているようだった。
当時ミョウガが生えていた地図を開いて、石原さんが説明していた。
大学の校舎を背景に、2010年の捜索で最初にミョウガを見つけた民家はブロックの門柱が無くなっていた。
大学の周りにミョウガが生えているのを、ここで初めて確認したことから、捜索隊員のモチベーションが一気に高まったことを思い出したが、ミョウガが生えていた民家は取り壊され、お寺(宝泉寺)の敷地になっていた。
上の画像をタツプする
2010年の時は7月17日だったが、今回は6月19日ということで、約1カ月早いことからミョウガの生育に差はあるが、面積的には少なくなっている。
新宿区立戸塚第一幼稚園の垣根には、2010年にも見つけていて・・・
7月でミョウガの子が生えていた。早生種のようだ。
当時、石原さんは、どのようなところに生えているがわかるようになっていて、今回もその時の能力を発揮してくれた。
石原さんは、2010年当時は早稲田大学4年で就活せずに手伝ってくれていた。
彼は東大の大学院が決まっていたからで、早大環境塾のメンバーとして、環境の視点で早稲田ミョウガを探してくれていて、後に論文を書いている。
早稲田ミョウガの発見は2010年8月21日だった。
その日は、昼からの捜索だったが、NHKのニュー7のクルーがついてきていた。
その年は干ばつで、行く先々でミョウガが枯れていた。せっかく全国放送のニュース7のクルーがついてきている中で、時計は2時を回っていた。
番組のディレクターからは、3時までに渋谷(NHK)に戻らなければ放送は無理と云われ、住宅街の道端にへたり込んでしまったことを思い出す。
その時、垣根越しにミョウガが鬱蒼としているお宅を、生産者として隊員に加わっていた井之口さんが見つけた。
後からわかったことだが、明治26年からこの地にお住いの旧家だったわけで、当初の考えた通り旧家にあったわけだ。
私が「茗荷邸」と呼んでいるお宅に改めて伺って奥様にもお会いした。
庭には新しくヤマボウシの花木が1本増えていたが、相変わらず庭の奥のほうまで、ミョウガが鬱蒼としていた。
当時と同じように2時間以上歩き回ったので、いい絵が撮れたようだし、いいコメントも付け加えることができた。
このたびは、令和元年度「農」の機能発揮支援アドバイザーとして都市農地活用支援センターより派遣されて伺った。