2019年07月19日

港区立三田図書館で、〜三田にもあった農業のルーツ〜をサブタイトルに江戸東京野菜を語る。


5月だったが、港区立三田図書館の奥村朋美副館長からメールをいただいた。
何でも、絵本塾出版の尾下千秋社長からのご紹介だそうで、生活セミナーとして江戸東京野菜を依頼された。
ご希望もあるようなので、三田図書館に伺って、工藤徹館長と奥村副館長にお会いした。

同館では、区報「広報みなと6月21日号」や図書館ウェブサイトでの掲載、館内ポスター掲示での募集を予定しているということで、ポスターは送っていただいたので、当ブログも紹介した。

こちらからは、港区の農業のルーツについて話すことをお約束したので、〜三田にもあった農業のルーツ〜をサブタイトルにした。

会場には、図書館の蔵書として江戸東京野菜関連書籍が並び、資料が配られた。




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東京が都市として発展するまえの明治の初期、千代田区、中央区、そして港区には沢山の牧場があった。

イギリス大使館(千代田区)のところ、中央区にある芥川龍之介の生家等周辺を紹介したが、港区には29か所も牧場があった。
当時の牧場の番付を見せたが、港区の地名までは判読できないものだった。





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港区では、四国町に薩摩藩の藩邸のあり、江戸東京野菜の孟宗竹(筍)が植えてあった。
薩摩の藩主島津吉貴公が元文元年(1736)に琉球交易の中で揚子江の下流域に繁茂する太い竹(江南竹)を取り寄せ、別邸の磯邸に植える。

そして一部は、江戸四国町の藩邸と、十代将軍家重の時代に幕府に献上する。

幕府献上に当たって、江南竹が中国のものであることが解かると、幕府は儒教を学問の中心と位置付けていたため、中国では、後世の範として親孝行の代表的人物24人の話「二十四孝」の中で、真冬に母親の希望の筍を食べさせることができないと嘆いた孝行息子の孟宗の有名な話から、中国の竹だから、江戸では孟宗竹と呼ばれるようになる。

江戸鉄砲洲の廻船問屋、山路治郎兵衛勝孝が薩摩藩邸でいただいた筍の味が気に入り、品川の戸越に建てた別邸に、薩摩から根株を取り寄せ、戸越の産物にする。

正岡子規の目黒の筍についても触れたが、三田から孟宗竹は広がっていったのだ。




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薩摩藩邸は、大政奉還後に起こったトラブルから慶応3年(1868)、旧幕府側の浪士らによって焼き討ちにあい延焼した。

これにより、薩摩藩邸跡は薩摩っ原と呼ばれるような空き地となるが、明治5年に、内藤家の江戸屋敷に内藤新宿農事試験場(現新宿御苑)が開設され、明治10年にはこの地に分場の「三田育種場」を設置している。

上の画像をタツプする

現在育種場跡地には、NEC本社ビルが建てられているが、国民公園協会新宿御苑の本荘暁子さんにいただいた明治19年の「舶来穀菜要覧」大日本農会三田育種場の資料によると、事業として、栽培研究の他、種苗を全国に販売や頒布会の開催なども行われた。

孟宗竹にしろ三田育種場にしろ、我が国農業のルーツは港区にもあったといっていい。

NECの真南に田町駅かあり、三田図書館があるが、明治44年(1911)から大正9年(1920)にかけて埋立地の芝浦が誕生したことで、海は遠くなってしまった。


追録

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三田図書館の入り口に「タツノ式ガソリン計量機」が展示してあったので写真を撮った。

上の画像をタップする
実は、下目黒3丁目に住んでいた子供の頃、近所に龍野さんのお住いがあり、年上から年下まで子供が4〜5人いたと記憶しているが、一緒に遊んでいた思い出があるので、懐かしくなった。

追伸
東京新聞のサンデー版編集部の羽雁渉記者から同社が連載している「世界と日本 大図鑑シリーズ」で江戸東京野菜を取り上げたいと云うので、三田図書館に聞きに来てくれた。
話が終わってから、会場で企画の方針などをお聞きした。

追録
奥村副館長からアンケートの集計結果が送られてきた。

posted by 大竹道茂 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 食育・食農・講演会等
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