東京新聞がサンデー版で、「世界と日本 大図鑑シリーズ」が見開きで連載されているが、図解されていることで分かりやすい。
最近では、4月7日のNo1399で〜種子法廃止1年〜「種を守る」が掲載、
6月16日には No1409で〜模索続ける〜「日本の有機農業」が掲載されて、わかりやすいと好評だ。
江戸東京野菜を取り上げたいと、サンデー版編集部の羽雁渉記者からメールがあり、会いたいという。
丁度、港区立三田図書館から講演の依頼があったことから、会場に来てもらって江戸東京野菜の話を聞いてもらい、「世界と日本 大図鑑シリーズ」の企画等について伺った。
各県における伝統野菜の記録と云うと、地元の大名に絡んだ記録の中に土地の名前の付いた野菜の歴史が記されていることが多い。
江戸東京野菜では、将軍の記録や、幕府として取り組んだ話や記録が残っている。
例えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国の武将が好んだ、信長の地元美濃の真桑ウリを、秀忠が六所宮(現大国魂神社)のある府中で栽培させ「御用ウリ」、家光は新宿の柏木で栽培させ「鳴子ウリ」と呼ばれた。
「江戸名所図会 木母寺内川御前栽畑」の浮世絵に残る御前栽畑は、四代将軍家綱の畑で、隅田川の上流から流れてくる肥沃な土壌が堆積していて色々な野菜が栽培されていて、そこから周辺の村々に野菜が広まった。
五代将軍綱吉は、尾張から大根のタネを取り寄せ練馬で蒔かせたら1メートルもある立派な大根ができ、その名は練馬大根。
八代将軍吉宗は、鷹狩で地元の青菜の入った餅の澄まし汁を食し、この菜を小松菜の名付けた。
九代将軍家重の時代に薩摩藩の島津公が江南竹を献上。中国江南地方の竹とわかると幕府は儒学を重要視していたために、二十四孝の孟宗から名を取って孟宗竹と呼ばれるようになった。
十代家治の時代、1767年(明和4年)9月、関東郡代伊奈忠宥が地元の名主小中野四郎右衛門と網代五兵衛に命じて、「のらぼう菜」の種子を江戸近郊の村々に配布した記録が残っています。
十一代将軍の家斉は、側室40人で子供が55人、その食生活は注目されていたが、促成栽培のミョウガタケを、味噌漬けや梅漬けにして1月から6月まで食べていた記録が残っている。
掲載されるかは、編集サイドが決める事だか、色々情報を提供してあるからお楽しみに。