天皇陛下の即位礼に伴い、庭積机代物として、東京では江戸東京野菜の東光寺大根と東京ウドが奉献されたことは、紹介したが、
古い資料を調べてみたら、明治天皇の大嘗祭は、古来より伝えられたものだったが、大正4年の庭積机代物は、全国各県からの奉献が制度化されたことから、樺太、朝鮮、関東州、台湾からも奉献されている。
大正4年、東京都からは黍(キビ)、芭蕉實(バナナ)、海苔の三品で野菜は選ばれなかった。
芭蕉實が選ばれたが、当時は領土として洋上1千キロの小笠原の存在を示したかったのか、他には芭蕉實は台湾から奉献されていた。
昭和3年の大嘗祭に供納された特産品は、黍、芭蕉實、海苔に加え、野菜として胡蘿蔔(ニンジン)、莱菔(ダイコン)が選定されていた。
しかし、台湾を始めとする領土からの奉献はなかった。
ニンジンは、関東ローム層の火山灰土の地味にあった滝野川ニンジンを豊多摩郡井荻町下井草(杉並区井荻)の本橋久蔵氏が、莱菔(ダイコン)は練馬大根で北豊島郡下練馬村(練馬区早宮)の島野吉五郎氏が、芭蕉實(バナナ)は、小笠原島父島大村の小祝幸一氏が奉献している。
東京都農林水産振興財団の金子章敬農業振興課長にお願いして小笠原バナナの写真を送ってもらった。
小笠原には、現役時代の1976年と1988年に仕事で父島と母島を訪れたことがあるから、小笠原バナナを食べているが、短くて、皮が薄くて甘さの中に酸味もあり、一度食べると癖になるバナナだった。
金子さんは、2009年、2010年と、小笠原支庁亜熱帯農業センターのセンター長をされていたので、亜熱帯農業センター営農研修所の近藤健所長に写真を撮ってもらったとか、
近藤所長ありがとうございました。
Googleで見てもらうと、船は二見港に入港するが、小笠原支庁亜熱帯農業センターは、父島小曲(地図の下側)にある
また、昭和4年の大嘗祭にバナナを奉献した小祝さんは、明治36年生まれで、昭和2年7月父島蔬菜組合の理事に選任された。
甘藷、砂糖、蔬菜、果実などの審査員に指名される等、父島農業のリーダーとして信頼が厚かったようだ。
当時は小笠原島父島大村境浦65番地にお住まいで、バナナはキング種で栽培地は、自宅裏の夜明山麓の小さい丘の西面傾斜地60坪に、昭和元年6月末に栽植したものの中から5株を選んだとある。
「江戸・東京の農業屋外説明板」が建立されているのは、小笠原神社で扇浦小曲にある。
説明板の建立に尽力された西澤希芳係長(建立当時)
「東京府農会報」をみると、江戸東京野菜に登録するに値する内容だ。
バナナは果実の中に含めているケースを見るが、草になる果実は野菜だ。
父島は熱帯果実の生育に適していることから、明治12年に熱帯植物試育事業を開始して、台湾や南洋諸島等から熱帯果実の種苗を輸入して増殖を図り、パイナップル、パパイヤ、マンゴー、小笠原オレンジ等、試作の結果有望株は民間に交付し、栽培指導を行った。
特にバナナは、父島と内地間の交通が不定期で不便なことから、バナナの需要は微々たるもので、島内で生食用にする他、酢や酒に醸造したり、内地への土産にする程度だった。
明治32年から毎月1回の船便(バナナボート)が通うことになり、内地の需要が増えていき、販売が確実になったことから、栽培面積も増えはじめ、明治43年度より、バナナ最盛期に月2回に増えて年間18回になったことから栽培面積、生産高は増加した。
バナナ栽培は生産費が少なく、農家の純益は他作物に比べて遥に大きいことから、栽培は益々増加した。
しかし明治45年春から、父島に萎縮病が蔓延したことから、被害は拡大し、硫黄島を除く他島のバナナ畑は全滅した。
大正6年頃からバナナ栽培は復興していく。時あたかも、内地では景気が好況期にあたったことから、内地市場の需要は増加し、父島のバナナ栽培の発展は著しかった。
特に大正4年には萎縮病との戦いの中で、東京府は大嘗祭にバナナを奉献しているが、生産者の記録は見つかってない。(東京府農会報112号)
金子課長に伺うと、沖縄、奄美の島バナナは、小笠原バナナが持ち込まれたものだという。