先日、江戸東京野菜コンシェルジュの亀島由美子さんから、頂いてきた三関せりが成長し始めたとラインで写真が送られてきた。
三関せりは、6月上旬、親株になるものを育て、節からの発根を促し苗(ランナー)を育成させる。
大きくなったところで水を張った本畑に定植する。
宮城県名取の三浦隆弘さんの場合は、NHKの里山で紹介されたが、節が2〜3付いた茎を、無造作に水田に投げ入れていた。
お勝手の流しの窓際に置いているようだが、主婦が楽しむにはいい水栽培だ。
「東京ではどこで作ってるんですか ? 」と「サミットin秋田湯沢」で誰だったかに聞かれた。
東京の中央卸売市場に全国から入荷する野菜は、0b地帯から、中山間地、そして2千メートルの雲取山まで、
また、洋上1千キロの小笠原まであるから、なんでも栽培していると、云ったものだから聞かれたものだ。
昭和57年に、足立区入谷の小金井敏夫さんの屋敷前の水田で、宮中新嘗祭に東京を代表して献穀するため日本晴を栽培していただいたのを記憶しているが、
足立では水田周辺に住宅に建つようになり、数年後、家庭の雑排水が用水に流入するようになり、足立区では水田は埋め立てられてしまった。
足立区興野で伝統野菜の本田うりや、千住ネギを栽培している内田さんのお宅でも、かつて「水セリ」を栽培していたようで、見沼代用水の支流が屋敷内を流れていたから、それを使っていたようだが内田さんにはセリ田の記憶にないという。
ただ、セリの収穫に使う農具(足に履く桶)が、物置に残っていて、足立区郷土博物館の学芸員が持って行ったという。
上の画像は内田さんのものではないが、足に履く桶、杖の竹竿、作業が厳寒の11月から3月までだったので、手を温める手風呂を使っていた。
この手風呂、専用の小型風呂桶をタライに乗せてセリ田に浮かべ、炭や練炭などでお湯を沸かし、冷えた手を温めた。
足立でのセリの歴史は、文政5年(1822)にはセリが栽培されていた記録があり、平成14年(2002)に発行した「江戸・東京 農業名所めぐり」(農文協)に、足立区扇3丁目の国井行夫さんが、今も井戸水を使って一人栽培していると記載され、「伝統と土地柄を大事にする下町農民の心意気を感じられる。」とある。
「足立のセリ」は有名で、足立区扇の御嶽神社には江戸東京の農業説明板を建立してある。
足立区農業委員の内田宏之さんが、国井行夫さんのご子息勇夫さんにお会いして話を聞いてきていただいた。
それまで桶を履くなどしてセリ栽培をしてきたが、昭和14年(1939)当時、東京鉄鋼(1934年に千住に設立)の工場が、足立区扇の国井さんのお宅から北へ500bのところに出来た。工場では溶けた鉄を製鉄にする過程で鉄を冷ますのに、井戸水を使っていたが、その温かい排水を用水に流していた。(冬には用水から湯気が立っていたという。)
暖かな用水の水はセリの生育が良かったから、最盛期には40名からの生産者がいたが、昭和45年(1970)に東京鉄鋼鰍フ本社・工場が栃木県小山市に移転したことから多くのセリ生産者が栽培を辞めてしまった。
工場跡地には、現在西新井大師扇スカイハイツと足立区立扇中学が建っている。

しかし国井さん一人だけ昭和45年以降も、井戸水を半分、半分は水道水を使って30年余、栽培してきたが、鴨が飛んできて、いたずらをするようになって、3分1しか収穫できなくなってしまったことから、
写真の平成14年から3年後、平成17年(2005)に辞めたと云う。
カラー写真に写っているのが国井さんのようだ。
現在、高野駅前に蓮田だがあるが、
国井さんの蓮田にもごみを投げ込まれる等、管理にはご苦労がある。
これも「足立の水セリ」の物語で忘れられるところだった。
内田さんありがとうございました。
東京にもセリを育てていた歴史、改めて先生のブログから2011年まで遡れて、残す事の大変さや無くなる事の無念も読み戻しながら感じました。心して活動して行きたいと思いました。