藍染の半纏は粋なもので、江戸東京野菜の復活普及を始めたころ、日本橋祭りが橋上で行われたが、
京橋の大根河岸で生業を立てていた青果業者のグループ「京橋大根河岸会」の皆さんが、藍で染め上げた「大根川岸」の長半纏を羽織っていた。
「京橋大根河岸会」の石川勲会長(東京中央青果先代社長)がお元気なころ、大根河岸青物市場の話をお聞きした。
キッコーマン主催の「大人の食教室」の講師を依頼されたときに、お借りした。
その後、高円寺の「うおこう寄席」では、自前の「睦」半纏で江戸東京野菜を紹介している。
平成18年に、金子丑五郎が育成した「金子ゴールデン」の記念碑を建立した時に、金子さんのご親戚で杉並にお住いの浅賀喜一氏(藍屋興行株式会社先代社長)から、「井草の藍」の資料をいただいていたが、書類を整理していたら
出てきた。
先日は、鮎蓼を紹介したが、今度は同じタデ科の蓼藍だ、
江戸時代に天然染料の藍葉は四国の阿波(徳島県)は特に有名だったが、江戸近郊では江戸末期から大正初期まで、
杉並から田無にかけて、蓼藍の栽培が盛んに行われ、「井草の藍」の作柄が、東京の藍相場を左右するといわれる程でしたと、杉並郷土叢書(森泰樹著)に記されている。
明治初期の頃、東京府東多摩郡の高円寺をはじめ各村の有力者は競って、藍玉の集荷問屋や紺屋(こうや)を開業しました。
紺屋は春のうちに、農家へ藍草代金を先払いして、原料を確保する習慣だったという。
中には、自己資金だけに止めず、農地や屋敷地を担保に銀行などから借金して、多くの農家へ先払いしていた藍屋もあったようで、藍は、投機性の強いものになっていった。
農家は、藍草代金を受け取ると、3月初めに畑へ種を蒔き、7月頃刈り取り紺屋に納めた。
杉並区史によると、明治21年「各村戸口資力調査表」によれば、藍葉は小麦よりも多く生産されている。
紺屋は、集めた藍葉を天日でよく干し上げ、藍柄棒打(くるり棒で麦打、より早く叩く)をして、茎と葉とに分け、細かくくだいてから、藍をねかせて発酵させ、臼で搗いて藍玉を作った。
青梅街道には、絣(かすり)の木綿糸を染める紺屋が5軒あったという。
明治27年の日清戦争から日露戦争までの10年間は、軍用品の染色で大変景気が良く、農家から藍葉を集め、藍玉に加工する藍屋は、杉並の農村工業の始まりで、一時は30戸を超える盛況だった。
しかし、明治38年にドイツからバイエルの化学染料が輸入されたため、価格は大暴落し、担保の農地や屋敷地を失う大損害を受けた紺屋が続出した。
浅賀家では、損害を最小限にくい止め、化学染料の時代が来たと判断し、明治38年に廃業している。
江戸時代に高円寺村の名主を勤めた旧家の村田紺屋は、この暴落で多額の借財を抱えて没落した。
明治42年に、金融業者の手に渡った村田家の広大な藍畑(高円寺南2丁目)には、四ツ谷など東京府内から福寿院、長善寺、長龍寺、宗泰院、松応寺、西照寺などが移って来て、現在寺町ができている。
大正3年には、第一次世界大戦が勃発し、ドイツより化学染料の輸入が途絶えたため、藍玉は暴騰し、それまで細々と仕事を続けていた藍屋は膨大な利益を得て藍成金が生まれ、一時は息を吹き返した。
しかし、まもなく国内で、大量の化学染料が生産されるようになったため、藍玉は一挙に暴落し、藍屋関係者は莫大な損失を被り、杉並でも財産を失い、破産したり没落するなど、悲劇が各地で起こり、ついに「井草の藍」は全く姿を消してしまったという。悲しい物語だ。
今は亡き喜一氏は、地元城西農業協同組合の組合長をされ、
平成8年には、杉並区・中野区・世田谷区、大田区内の6JAをまとめ
合併に誘導し、JA東京中央の初代組合長として活躍された。
喜一氏の奥様好子さんに伺うと、練馬早太り大根や江戸東京野菜の
渡辺早生ゴボウを育種した渡邉正好氏は長兄で、前出のビール麦金子ゴールデンを育種した金子家には喜一氏の妹静江さんが嫁いでいて、
東京を代表する農家同士は繋がっている。