内藤カボチャの栽培授業がようやく始まった。
新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐことから、
長期臨時休校が行われたことから、授業が遅れていたが、
内藤カボチャの苗は、すでに定植されていて、
内藤カボチャについての調べ学習も始まっているようだった。
授業は、吉田順子教諭、川崎香澄教諭の指導で
1組、2組が合同して体育館で行ったが、マスクをつけて、
ソーシャルデスタンスをとって行われた。
生徒達は盛んにメモを取っていた。
内藤カボチャは、新宿御苑が、信州高遠藩の藩主・内藤清成の
下屋敷地だったが、広すぎて現在の玉藻池のある辺りが屋敷で、
広い屋敷地にはたくさんの小作を入れてカボチャや、トウガラシを
栽培していたものだが、大政奉還により内藤家は屋敷地を政府に返し、
その後、屋敷地は内藤新宿農事試験場(御苑の前身)となった。
内藤家の小作人たち家族は、青梅街道を淀橋方面と
甲州街道を角筈方面に移り住んだ。
同校の地域は角筈(つのはず)と云われたことから角筈カボチャ
と呼ばれていた。
歴史の話などには、興味を持って聞いてくれた。
「カボチャはどこから来たの」で話題を世界に向けた。
大航海時代の1492年、クリストファー・コロンブスは、
アメリカ大陸を発見し、
カボチャ、ズッキーニ、トウモロコシ、トマト、インゲン豆、
ジャガイモを持ち帰ったと、話したが、
当時、カボチャの事をなんて呼んでいたかについては時間の関係で
話していない。
コロンブスは、スペインの後ろ盾で、3艘の帆船で持ち帰った。
その後、カボチャはヨーロッパ各国に、そして世界に伝った。
スペイン語で「Calabaza」(カラバザ)。
1541年、ポルトガルの船が、カンボジア経由で
九州の豊後(大分)に漂着し、藩主大友宗麟に献上している。
カンボジアから来と「カボチャ」と伝わった。
上の画像をタツプする
今日「宗麟(そうりん)カボチャ」として大分に伝わっている。
また、1592年長崎に、ポルトガル人が持ち込んだとの説もある。
ポルトガル語の「Abobora」(アボボラ)から「ボウブラ」と呼び。
熊本の伝統野菜の
ひご野菜には「ボウブラ」と「カボチャ」の名で伝わっている。
江戸では内藤カボチャも「唐茄子(トゥナス)」と呼ばれていたし、
大阪には「勝間南瓜(コツマナンキン)」の伝統野菜があり、
日本では、カボチャ、ぼうぶら、とぅなす、なんきんの名で
呼ばれている。
生徒達には、カボチャの名前を調べることも・・・・、
担任の先生を通して伝えてもらおうと思っている。
追申
令和2年度都市農業機能発揮支援事業(農林水産省)を実施する
「農の機能発揮支援アドバイザー」として派遣された。
追申
上の画像をタップする
長井校長は同校の伝統を引き継ぎ大切に続けていこうと、
和太鼓の演奏と内藤カボチャの栽培には力を入れている。
体育館の隣に、素晴らしい菜園があった。
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学年ごとに栽培しているようだが、
校庭とは、校舎で遮断されているから
ボールなどが飛び込むことのないスペースだ。
長井校長は、7月15日の「校長室だより」に掲載された。