羽村の堰と云うとそこから
玉川上水は江戸市民への飲み水を供給していたが、
途中分水して武蔵野の農村地帯にも引かれ田畑も潤していた。
玉川上水が造られたのは、江戸も三代将軍家光の時代で
江戸の人口は増えて、このままでは飲み水が不足するようになる。
そこで、老中松平信綱は町奉行の神尾元勝達に
水量が豊富な多摩川から江戸に上水を引く計画を立てさせる。
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碑文を書き写してきた。
多摩川の水を江戸に引く工事を請け負ったのが庄右衛門と清右衛門
の兄弟だった。
水利や地形にも詳しかったが、辛苦を重ねた。
完成間際、日野を取水口にしたが通水に失敗、上流の福生に
取水口を移したがここでも失敗、更に上流の羽村に取水口を移し
ようやく江戸の四谷大木戸まで多摩川の水を引くことができた。
承応2年(1653)から工事が行われ6ケ月で開通した。
ブルドーザーなどない時代、尾根筋を43`、標高差100bたらず。
高い技術で、江戸市民の飲用に供した。
これにより、幕府から褒美として「玉川」を名乗る事が許された。
東村山の浄水場へと送られている。
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羽村の堰(上左)で、
多摩川の流れは取水(上右)されて上水に取り入れられる。
写真下は堰の筏通場
「きのう山下げ、きょう青梅下げ あすは羽村の堰落し」と
筏乗りの唄に歌われたと云う。
江戸は火事が多く、多摩川上流から伐り出す青梅材の
筏乗りにとって、羽村の堰は最大の難所だった。
筏には、奥多摩ワサビなども積んでいたので、
注意して通場を通過した。
江戸東京の農業説明板には
江戸東京野菜の奥多摩ワサビについては「武蔵名勝図絵」(1823)
に梅沢村名産とされ、栽培方法のほか、神田青物市場に
出荷されていたと書かれ、古く江戸時代から換金作物として
渓流を利用して、沢毎に良質なワサビが栽培され、
将軍家にも献上されていました。
追録
これまで、玉川上水について掲載してきた。
「玉川上水から分水した用水は、小川となって立川を潤していた。」
「玉川上水沿いの農地で栽培されている江戸東京野菜。」
「・・・玉川上水と残堀川が直交する不思議な景色。」