府中市にある都立農業高校の教諭から、東光寺大根の種はどこで入手できるかというメールがあったことはお伝えしたが、
同校の卒業生が多い、日野市と八王子市には練馬系の白首大根があり、日野市には東光寺大根、八王子市には高倉大根がある。
卒業生の多い地元の大根と云うことになると、高倉大根もあるわけで、東光寺大根の入手が無理な場合は、高倉大根でもいいのか、などについて確認を行った。
高倉大根については、かつて瑞穂農芸高校の横山先生をご案内したこともあったからだが、東光寺大根の奥住さんが快く分けていただいたので、昨日、教諭にお渡ししてきた。
東光寺大根は、明治26年に、板橋の方面から来た薬の行商人が、種を持ってきて勧めたのが始まりと日野市の市史に掲載されている。
巣鴨駅から板橋駅の間に種屋街道があり、沢庵にする練馬大根の種を販売していた。
奥住さんも、沢庵漬けにしている。
かつて同校都市園芸科にいらした大谷先生に、府中御用ウリを栽培していただいたことがある。
練馬の村田農園で渡邉和嘉さんが栽培した真桑ウリを持参した。
この真桑ウリ、府中では「御用ウリ」、新宿では「鳴子ウリ」と呼ばれているもので、丁度、へた落したので、同校の生徒に、この匂いなどを知ってもらおうと持参したが、3個でいいと云うので、手渡した。

信長、秀吉、家康という戦国武将が好んだ美濃の真桑ウリを、家康は関東でも栽培したかったが、二代将軍秀忠の時代になって同校のある府中で栽培が始まった。
六所宮と云われた大國魂神社の記録に、”御瓜畑(ごかでん)” が描かれた資料が残っている。
豊臣秀吉の太閤記より
秀吉が日吉丸と名乗っていた少年の頃、夏ともなると、行商の人が美濃の真桑瓜を、「瓜、瓜 昧よしの瓜や、瓜を召しませ。」と流し歩くのが夏の風物になっていた。
そこで、美濃の真桑瓜を仕入れてきて、尾張の町場を売り歩いていたことがある。
文禄三年(1594)六月廿八日の事、秀吉が朝鮮に加藤清正など兵を出した際、筑前に築かせた名護屋城で指揮をとった。そんな緊張の中で、諸大名や女官を集め、城内に作った瓜畑を会場にして息抜きの仮装大会を開いた。
会場の周りには、瓜屋や旅籠屋を模して造り、諸将がそれぞれに扮装をこらして出てくるという趣向である。
徳川家康は笊売り、織田常真は旅の僧、前田利家は高野聖、蒲生氏郷は茶の行商人、前田玄以は旅の肥りたる尼などになった。その外、神官、虚無僧、茶屋の亭主、猿使いなど様々ないで立ちであった。
秀吉は、日吉丸時代に体験した、真桑瓜を売り歩くあきんどに扮した。
黒い小頭巾を頭にのせ、菅笠を背にかけ、柿色帷子の粗衣に腰みのを巻きつけて「瓜、瓜 味よしの瓜や、瓜を召しませ。」と瓜を荷い出てきた姿に、見物の大名も女官もびっくりした。
本物にしか見えなかったからで、皆が驚く様子を見て、秀吉は事の外ご満悦だった。
太閤記には、こうした真桑瓜の畑でのイベントが、記されている。
後日、教諭からは生徒の反応についてメールをいただいた。
「頂いたマクワウリですが、においを嗅がせたり、
見た目をスケッチさせたり、五感をフル活用してもらいました。
授業後のアンケートでは、
実際に食べてみたかった声が多く聞かれたので、
今回はコロナの関係で味見できなかったのが残念です。」
とあった。
12月16日に、収穫した東光寺大根の写真が届いた

メールには「昨夜、東光寺大根の収穫を行いました。
その時の写真を添付致しましたので、ご確認ください。
実際に、東光寺大根を育ててみると葉が改良種よりも
しっかりしていたり、様々な違いが見られ、生徒にとっても
江戸東京野菜についてよい勉強ができたと思います。」
とあった。それは良かった。