2020年10月30日

淀橋市場の市場稲荷神社境内に内田秀五郎先生の上半身像が建立されていた。


東京都中央卸売市場で
江戸東京野菜の勉強会が開催されたことは、先日紹介したが、
淀橋市場の正門脇に市場稲荷神社が祀られている。

その境内に内田秀五郎先生の上半身像が建立されていた。

内田秀五郎先生は新宿の青果市場開設に尽力した方で、
昭和12年東京新宿青果株式会社を設立し初代社長に就任したことで、
20周年の記念として昭和32年に建立されたものです。





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大正12年の関東大震災により、大きな打撃を受けた東京の市場は、
復興が遅れる中で、それまでの民営食品市場だけでは
東京に入荷する農産物は収容できなかった。

上の画像をタツプする
東京市は昭和7年、築地本場、神田分場、江東分場に加え、
新たに4つの分場を作る第二次分場建設計画を策定、
その一つが淀橋市場で、施設としては昭和14年に中央卸売市場
淀橋分場として開設された。

それに先立ち、内田先生は周辺の民営中小青物市場(あおものいちば)
をまとめて、昭和12年に東京新宿青果株式会社を設立し
社長に就任している。

碑文には、市場神輿を新調した際のエピソードが記され
堂飾りの七福神の彫像、大黒様は内田先生の顔になっているとある。
しかし、4分の3世紀が過ぎようとする今、それを知る人は少ない。






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立川の東京都農業会館の前には内田先生の胸像が建立されている。

上の画像をタップする
内田先生は、東京農業の分野でも、発展に尽力している。
昭和18年には農業振興のため都農業会が設立されると会長に就任した。

戦後は体制が変わり、昭和23年農業協同組合と連合組織が結成された
厳しい経済変動にもまれ、経営不振が相次いだことから、
26年から再建整備に取り組んだ。
農業団体では、連合組織の頂点に内田先生を迎えるべく努力したが、
安井誠一郎東京都知事の要請で内田先生は会長を受けた。

内田先生は、私が中央会に入った昭和41年、90歳だったが
かくしゃくとしておられ、親しくお話をするには恐れ多かった。

その年、自ら拠出して財団法人内田農業振興会を設立し理事長に、
同年、都農業会館は南新宿ビルを竣工した。

当時の農業会館は、平成和23年に建て替えられ、平成29年には
新JA東京南新宿ビルが竣工し、JA東京アグリパークがオープした。

昭和50年7月に99歳、名誉会長で亡くなられた。
老樹が鬱蒼とした杉並の屋敷地で葬儀は厳粛に執り行われた。
思い出に残るリーダーだった。





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かつての、東京都農業試験場板橋分場は、その後、東京都農協中央会の採種農場となったが、昭和37年、東京オリンピックに関連して、
目白通りが農場を分断する形で開通したため、

上の画像をタツプする
農場としての機能を失い、農場は日野市高幡に移転した。
現在分断された農場には、北側を東京ガス(株)のガスタンクが建ち、

南側はべじふるセンター練馬になっていて、

三鷹の星野直治さんは、自慢の改良千黒2号(ナス)を、

練馬区高野台の井之口喜實夫さんは、江戸東京野菜の早稲田ミョウガを
始めキャベツなど生産物は、べじふるセンター練馬に納品している。





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内田先生は、東京府豊多摩郡井荻村(現杉並区)の青年村長として
数々の偉業を遺し、都市計画史に残る先駆的な土地区画整理事業は
有名で、大正13年より東京府議会議員となり、以来昭和22年まで
都議会議員を勤め、東京都議会議長としても活躍されました。

善福寺池の小高いところから池を見下ろす、内田先生の立像がある。

上の画像をタツプする
練馬に隣接する井荻村では江戸の頃から練馬大根を栽培していて、
内田先生は現金収入を増やすため干し大根を沢庵漬けにして
販売することを奨励し、地域の特産物にまでした。


posted by 大竹道茂 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他関連情報
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