農文協から出版する予定の「江戸東京野菜」で、「江戸の舟運」の原稿を書いたが、〜家康が江戸に来て最初に取り組んだことの一つに、隅田川と中川をつなぐ運河「小名木川」を・・・・・。
行徳の塩田から塩を江戸城に運ぶための運河を開削している。
また、年貢米を江戸に運ぶために、幕府は利根川の東遷と、荒川の西遷という大改修を行った。
千葉県銚子から利根川の穏やかな流れを、関宿まで上り、関宿から江戸川を下って、野田、流山、松戸、市川、行徳、そして小名木川で江戸市中に運ばれた。
江戸には西からも舟運で、カボチャやサツマイモが千住市場や、神田市場に送られてきた。
荒川の西遷で、武蔵國の荒川村から用材が筏で木場に送られてきたが、松平信綱が川越藩主になってから、年貢米を江戸蔵前の御蔵に運び込むために荒川に沿って新河岸川が開削されて江戸と繋がった。
友人の青木宏高さんから、10月に行うイベント「大人の食育推進講座」のバスツアーで、川越芋の産地をめぐるからと事前調査に誘われた。
かつての川越の一部は、所沢市になっていて、同市南永井にあるサツマイモの碑にご案内いただいた。
「史蹟南永井さつまいも始作地之碑」は、柳瀬村長 久瀬川市郎が揮毫、碑の裏に埼玉県教育委員会が、文化財に昭和25年3月31日指定し、昭和27年8月に碑は建立されたとある。
碑の横に所沢市では、平成17年3月に説明板を建てていた。
説明板には、南永井村の名主吉田弥右衛門が寛延4年に種芋を買い付け、この地で栽培を始めたことが記されていた。
碑が建立されている裏の吉田家を訪ねた。
吉田弥右衛門の子孫で、第23代当主の姉だという、吉田策(さく)さんが、説明板には記されていない部分を話してくれた。
寛永の頃、薩摩の浪人夫婦が川越城に行く途中、柳瀬村南永井で日が暮れて、吉田弥右衛門宅に泊まり、世間話の中で「薩摩芋をつくれば餓死する人がいなくなる」と聞いたのだという。
そこで弥右衛門は、寛延4年2月28日、江戸木挽町の川内屋八郎兵衛の世話で、上総国志井津村(現・千葉県市原市)の長十郎方へ、息子の弥左衛門を、種芋の買い付けに行かせた。
上総では青木昆陽によってサツマイモの試作が行われ、上総の地域に普及されていた。
弥左衛門は9日後に帰村し、以後、サツマイモは周辺の村々に伝わり、「川越いも」によって、江戸では焼きいもブームが起きている。
「栗(九里)より(四里)旨い十三里」から、当時川越産の薩摩芋は「十三里」とも呼ばれていた。
それは川越までが十三里だったからだ。
策さんは、家にも上げてくれたが、応接間には覚書や、サツマイモ栽培の写真が額に入れてあったので写真を撮ったが、手振れで読み取ることはできない。
策さんの話では、数年前(平成18年11月)、地元の神明社境内に、青木昆陽と共に吉田弥右衛門を神として祀った「甘藷之神」が遷座したと話されていた。
その内に行ってみたいと思っている。