野菜栽培を始めたことは、紹介した。
これまで、竹村校長は、
港区立青山小学校、そして前任校の新宿区立落合第六小学校でも
屋上に土を運び上げて野菜栽培をされてきた。
その中でも、東側の屋上にはサツマイモの栽培も行っていて、
スイカや、鳴子ウリ、カボチャと供に、
屋上の周りにサツマイモの袋か置かれていた。
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サツマイモは、葉の柄の付け根から出る長い不定根が
イモになるため、不定根を受け入れる袋も必要だった。
今年は、種芋の袋の中に小さな芋が出来たと聞いている。
あかね書房の「サツマイモ大図鑑」に係わるようになってから、
当ブログでもサツマイモについて紹介してきた。
サツマイモが中国から琉球に伝わったことは、
友人の中西博之さんが雑誌に掲載していた。
江戸では、青木昆陽がサツマイモの試作を行っていた。
小石川は起伏にとんだところだったが、
養生所と試作地は平坦にならされていた。
川越の吉田弥右衛門は千葉へ種芋の買い付けに息子を行かせたが、
永井で栽培し、普及したことで、江戸では焼芋ブームが起こり、
地元では昆陽と同等の「甘藷乃神」として祀られている。
また、袋栽培の事例も掲載されている。
青木昆陽は、試作をした以降、昆陽の記録は豊多摩郡や北多摩郡に、
幾つかの記録があり、享保20年(1735)には、新島に種芋を送っている。
川越に隣接する西多摩の瑞穂の村々では、江戸時代から、
川越金時の「紅赤」を種芋として仕入れて栽培していた。
東京におけるサツマイモの適地は区内西部から、北多摩郡の北部の、
砂川(立川市)、清瀬、東大和、武蔵村山、東村山、東久留米、小平、
田無、西多摩郡の瑞穂で、享保19年以降、昭和20年代の
食料増産時代まで各地で作られたが、
以後急激な都市化によって減少していった。
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東京の伝統野菜が掲載されている「江戸・東京ゆかりの野菜と花」
には、おいしく、色・形のよい「東京金時」が掲載されている。
主産地では「東村山市の櫻井喜三はこれを埼玉県入間郡三芳町から入手して、消費者が好むようなやや長めの紡錘形のものを選び出して育てた。味・色・形と三拍子そろっていたので市場で高く評価され、
東京金時として有名になった。」とある。
「東京金時」も江戸東京野菜の候補のひとつで、探している。